「シンノスケ」のこと


 「信濃川」と呼ばれている日本でも有数の長流は、その本流を長野県側では、「千曲川」と呼んでいる。山梨県の甲武信岳の北側が源流とされている。
 この「千曲川」は、長野市の南部で、「安曇野」を流れ下ってくる日本アルプスの東裾に源流のある「犀川」が合流する。この合流地点のわずか上流で、秘境「鬼無里」方面から「裾花川」が「犀川」に流れ込む。
 1995年からの数年間、我が家族は、この「裾花川」の下流にほど近いところでアパート住まいをしていた。

 これから本格的な寒さが訪れようとしていた、1995年11月、われわれ家族は、旧友 K氏夫妻のお世話になり、群馬県の温泉郷・万座から下りて、長野市内に引っ越した。
 住まいは、K氏夫妻に紹介していただいた新しい勤務先の建築会社WB社の社長の世話で、その取引先である 塚田材木店の資材置き場の2階だった。
 資材置き場の2階とはいえ、2階部分は、アパートになっていて、3所帯分のスペースがあった。大家の材木店の跡とり息子の新婚生活用に作られた所が、われわれの新居になった。
 玄関は、専用の鉄製の階段を上がったところにあり、風呂場だけが階段下とはいうものの、実質的には戸建て住宅のようなもので、分に過ぎた住まいだった。

 新しい住まいには、先住者がいた。
われわれが入居したところは、しばらく空き家になっていたらしく、階段をあがった玄関先と1階の風呂場の屋根との間あたりをねぐらにしている老いた雌猫がいた。
 食べ物も十分ではなかったのだろう、重症の感染症にかかっているらしく、衰弱していて、そう長くは生きられそうもなく見えた。

 われわれ家族は、誰もが犬・猫などの生き物は嫌いな方ではなく、朝夕、この老猫に餌を与え、世話をしていた。慣れてくると部屋の中にも入ってくるようになったが、何しろ、病気持ちで、いつ死ぬかもわからないような状態であるため、いい気分はしなかった。
 娘たちが、いったん帰国した後、この老猫は、姿を見せなくなった。どこかに死に場所を見つけたのかもしれない。

 そんな折、代わりを探しているときに、当時市内・西和田にあった 「 青空マーケット 」、通称 「 長野のアメ横 」で「シン」に出会った。
 乳離れも満足には済んでいない、生後2ヶ月前後の子猫だった。
小さなペット・ショップの店先のダンボール箱に入れられていて、『 里親を探しております。どなたか引き取っていただけませんでしょうか。』 とマジックで書かれた看板がつけられていた。
 生後間もないであろうことや、かなり痩せていたことなどから、健康に育ってくれるかどうかかなり心配したが、2匹の子猫のうちの1匹を引き取ることにした。
 1996年4月下旬の頃のことである。
 「シン」が生まれたのは、この年の2月ころではないかと思われるが、生まれた日にちのみならず、生誕にまつわる詳しいことは、全く分からない。

 そのころ、娘・ケイは、5歳を少し過ぎたばかりで将来の学校のこともあり、チェンライに戻ってタイの小学校に入学させるか、このまま日本の学校に入れる か、思案していたところだったが、いずれにしても、まだ大丈夫ということで、再来日することになり、5月下旬に戻ってきた。
 遊び相手の子猫がいるのを大変喜んで可愛がった。毎晩添い寝をしていた。
 娘と相談して、好きなテレビ・アニメの「クレヨン・シンちゃん」にちなんで「シン」と名づけた。正式名は「スズキ・シンノスケ」である。
 以来、離れ離れになっていた時期はあるが、娘もシンも兄弟姉妹のようなつもりでいたようだ。
 娘のケイは、結局、タイの小学校に入学することになり、シンと一緒の生活も、わずか半年ほどで、別れ別れになってしまった。その後は、年に1回あえるかどうかになってしまった。
 そのときから、家族が慰問に訪れてくれたときをのぞいて、「シン」と小生だけの生活が始まった。

 「シン」は、子猫のころから、猫というよりは、犬に近い性格で、小生が勤めから帰る時間帯には、きまって玄関付近に隠れて待っていた。足音を聞きつける と、猫独特の「脅しのスタイル」、つま先だって、尾を高くかかげ、横向きになって、スキップしながら近づいてきて、足に絡みつくようにじゃれついてきた。 たかが猫とはいえ、待っていてくれるものがいると思うと、勤務先から帰るのが嬉しかった。
 実は、その頃の勤務先は、ビル管理会社に変わっていて、勤務時間はローテーション制で、不規則だった。夕方、勤務に向かうときなどは、「シン」は、なんとなく不機嫌で、時には、姿が見えなくなってしまうこともあった。

 「シン」は、他の猫のことは、ほとんど知らないわけで、自分が「猫」であるとは、思っていなかったのかもしれない。
  家の中では、「シン」のお気に入りの遊び道具があって、遊んでほしい時には、くわえて持ってきた。なにか物を投げて、取ってこさせる遊びは、犬は良くやるのだが、猫では、「シン」が、初めての体験である。

  1年近くは、家の中だけの生活が続き、狭い部屋(といっても、3畳、6畳、4畳半、台所、洗面所)の中だけでは、なんとも、かわいそうで、家人たちが帰国した後、玄関脇のトイレの高窓は常時開けておくようにし、「シン」が出入りできるように、鉄製の階段の手摺りに、板で2段ほどの踏み台を作って、部屋に入りやすいよう工夫した。
 「シン」は一緒に散歩するのが、たまらなく幸せそうだった。最初のうちは、猫用のリードをつけて散歩に出た。散歩に行きたいときは、リードの紐をくわえて持ってきた。実に、猫らしくない猫だった。
 たいてい、湯上りの後ということが多く、いつも風呂から上がるのを待ちかねていた。そのうち、リードなしで散歩できるようになり、小雨でも、雪の積もった夜でも、寒いのを我慢して、シンのために散歩に出かけた。
 雪が深いときには、腹をこするほどに、足が埋もれてしまっても、寒がることはなかった。「猫はコタツで丸くなる〜♪」というのは、猫の年齢や環境によってはちがうのだろうと思えた。

 シンは子猫の時から、ずっと「弱虫」な猫だった。
 子猫の時代に、親・兄弟から引き離されて、大人になってから役に立つはずのことを、何も教えてもらったり訓練してもらったりしていないせいである。
 近所のドラ猫に追いかけられて、逃げ帰ってくることがよくあった。それが、一緒に散歩に出かけたときだけは、そのドラ猫を追いかけていき、襲いかかることもあった。こちらには、強い味方がいるんだぞと言わんばかりだった。

                ( 写真は、長野時代の シン )

 だいたいが、丈夫な猫だったが、少し具合悪そうなときには、鶏のささみや牛肉を生で食べさせたこともあった。すぐに回復し、元気な「シン」に戻った。長野にいる間、医者にかかったのは、「去勢手術」と、タイ行きのための「ワクチン」接種の時だけである。

 やがてシンも遅ればせながら大人になって、3年あまりが過ぎたころ、オス猫の本性を発揮し始め、3日も帰ってこないことがあったりして、去勢してもらうことにした。
 地域の保健所が、猫の避妊手術をしてくれるという回覧板が回ってきた。サービスで、ふつうの半額ほどの費用で手術してもらえることがわかり、大きめの洗濯袋とともに、「シン」を預けた。洗濯袋に入れたまま、麻酔注射をするのだそうだ。猫はいったん脱走すると、捕獲するのはほとんど不可能なための措置だそうだ。それにしても、ちょっとかわいそうな気がした。
 その夜は、心配で眠れなかった。手術の経過の心配はしていなかったが、いつも添い寝をしているのに、痛さをこらえて、不安で泣いている「シン」の姿が、まぶたにちらついた。
 最近の手術は、去勢手術ではなく、オス本来の性格を出来るだけ維持させる「避妊手術」であることがあとになってわかった。
 雄としての本性が残っているわけだから、必要に応じて交尾も出来る。「シン」は、チェンライに越してきてからも、ずいぶん多くのメス猫たちの相手をさせられていた。
 タイの避妊手術も、最近は同じような手術になったようで、わが家では、「もと雄」どうしのいさかいが耐えなくて困っている。

 「シン」は、手術後、3日目くらいから、普段と変わらない生活に戻れた。
学校の長期休暇で、家人たちが戻って来ると、その喜びようは、尋常ではなかった。
帰ってしまうと、しばらくは、元気がなくなり、なんとなく泣いていたように思えた。

 家族の様子や家のことなどをチェックするために、「シン」だけを長野に残して、タイへ出かけたことも何度かあった。
 1週間分ほどの食料と水を部屋の中に用意して出かけたが、いつも気が気ではなった。時には、Kさん夫婦に、留守中の世話をお願いしたこともあった。

 そんな生活が続いた後、いよいよタイへ戻ることになり、「シン」の行く末のことを考え、里親探しをしようとも思ったが、子猫ならいざ知らず、大きくなってからでは、かえって不幸になるとも考え、タイにつれて行くことに決めた。決めるまでは、ずいぶん悩んだ。
 それとても、「シン」の身になって考えれば、ずいぶんと迷惑なことにはちがいなかったが、いたし方なく、我慢してもらうことにした。猫は、犬以上に、環境の変わるのが嫌いな生き物である。
 引越しのドサクサで、「迷い猫」にでもなったら申し訳ないと思い、「シン」は引越し前の年に、一足早くチェンライに連れて行くことにした。シンと離れ離れになっても、チェンライには、娘もかみさんもいるわけで、それほど心配はしなかった。

 チェンライにある、わが家に日本からやってきた猫は、「シン」が初めてではない。20年前に引越して来たとき「オカッパ」をつれてきた。
「オカッパ」については、『 ジンゴロウの思い出 』 の中でも少しだが書いてある。

 浦安の家を処分したあと、あちこちの挨拶まわりにも、つれて歩いて苦労したが、そのときは、かみさんも同行していたので、いくらかは「オカッパ」も安心してはいたようだった。
 「オカッパ」の時には、タイの入国に際して猫の検疫制度というのはなかったが、「シン」の時には、「検疫」制度も厳しくなり、「ワクチン」を、タイ入国前の所定の時期までに済ませ、獣医の健康証明書なども用意するようにタイ国大使館から指示されたが、チェンライ空港はフリー・パスで、なんとなく肩透かしを食ったような気がした。まあ、タイらしくて結構なことである。

 「シン」にとってしあわせだったことは、「オカッパ」の時とちがって、旅の途中、四六時中小生と一緒にいることが出来たことである。小型ではあるが、ペット用のバッグの中での移動で、成田空港では、狭いシャワールームの中まで一緒だった。機内は空席がたくさんあって、搭乗後、まわりに乗客のいない席に移動したため、時々は、バッグから出して、お相手をしてやることができた。そのせいか、不安にかられて泣き声を立てるということもほとんどなかった。

 「シン」が、チェンライの家に越してきたとき、先輩猫は「ゴロー」だけだった。うまくやってくれるか心配ではあったが、「シン」は小柄な先輩に敬意を表してか、いさかいをするようなことは全くなかった。やがて、「ゴロー」の老化が進んだ2、3年後には、立場が逆転し、なんとなく兄貴風を吹かせるようになり、「シン」もすっかりチェンライ生活に慣れてきた。
チェンライ産の淡水魚などの焼き魚など、決して口にしなかったのが、たまには少しは食べるようにもなった。
 その頃から、我が家で生活する猫は、徐々に増えて、すっかり「ボス」の座に定着し、一段と貫禄がついてきた。
ただ、猫の社会というのは、犬とちがって、はっきりした序列を作る階級社会ではないので目立たないが、食事時などは、一番最後まで待って、子猫や若猫のように先を争うなどということはなかった。
 はたで見ていて、なんとなく哀れさを感じてしまう猫のボスである。

 我が家の猫たちは、庭にでて遊ぶなど夢のまた夢。外には、猫などの小動物を狩ることを無常の喜びにとしている犬どもが待ち伏せしている。いままでに、外の生活にあこがれて庭に出て、犠牲になった猫も、片手では数えられないほどである。そのため、外気が自由に入ってくるほどの、隙間風のある立て付けの悪い建具の部屋の中とはいえ、四六時中部屋の中で過ごさなければならなかった。

 「シン」は、長野生活以来の習慣で、外気に触れるのが大好きで、たまに、リードの紐をつけてもらい、ベランダに出してもらったときの喜びようは、並大抵のものではなかった。
 リードの紐は、何本かつなぎ合わせて、3mほどにして、物干し用のロープに、自在に動き回ることが出来るように結んでやると、行ったり来たりしてはしゃぎまわっていた。

 そんな姿を見ているかみさんの発案で、ベランダに柵を作って、降り注ぐ陽光のもとで遊べるようにと金網製の檻を作ることにした。
15m×10m、幅は広いところで5mほどのかぎの手になったスペースである。
やっと完成したのは、今年の夏であるが、この檻が出来てからは、日中部屋の中にいることはほとんどなくなった。

 だが、幸せな生活は、長くは続かなかった。この檻が出来て、いくばくもしないうちに「シン」は患い、逝ってしまうことになった。
 「シン」が、チェンライに越してきて、すでに5年あまりになる。 長野育ちで暑いのは好みではないのかもしれないが、老いたりとはいえ、平均的な寿命からして、まだ数年は生きながらえてくれるものと思っていたが、早すぎる。もしかすると、小生の方が先にくたばるのではないかと思っていたくらいである。
「生・老・病・死」、「諸行無常」とはいうものの、もう逝ってしまったのかと思うと、心痛耐え難いものがる。
 猫といっしょの生活が、30年になることは『 ジンゴロウの思い出 』 でも書いた。
「ジンゴロウ」以来、猫との縁がなかったら、経済的にも、精神的、肉体的にも、今、こうして平穏無事な生活は続けてはこれなかったのではないかとさえ思われる。
 今のかみさんと引き合わせてくれたのさえ、「猫神様」のお蔭ではないかとさえ思うことがある。
 少々オーバーな言い方をすれば、猫は小生や我が家族にとって「生き神様」だといっても言い過ぎではないくらいである。

 その大事にしていた「シンノスケ(通称シン)」が、2006年9月4日に他界した。
 その死から、もうじき100日になろうとしているが、思い出すたびに涙がこみ上げてくるのを感じる。追悼の意味も込めて「シン」について書き残しておくことにした。

   2006年11月現在、我が家には、犬19匹、猫21匹が生活をともにしている。(追記:2009年7月現在、猫の総数は、家の中の22匹を含め、40匹になろうとしており、頭痛のタネである。)

   「シン」の臨終までの詳細は、以下の当時の日記(楽天ブログ)をごらんください。
     ・ 9月1日  「シン」、クリニックへ
     ・ 9月2日  「シン」、臨終近し
     ・ 9月3日  まだ生きています
     ・ 9月4日  「シン」、死す

「シン」 の写真など、写真集 『 わが家の猫たち 』 もご覧ください。