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庫裏の新築祝いと「ドイ・トゥ・ルン
 งานฉล้อมกุฏิ / งานเฉลิมกุฏิ 
北タイ語            中部タイ語


  仏暦2550年(2007)1月20日に、「山のお寺」の庫裏 の新築祝いが行われました。祭りの一端の写真を掲載しましたが、この際、日記にもたびたび登場する「 山の寺( วัดดอย ) 」 について由緒など書き残しておきたいと思います。


地理的環境

 我が家の北西、1km足らずのところに、通称、「ドイ・トゥ・ルン(トゥ・ルン山)」と呼ばれる山があります。上の写真の左端の小高い山です。
「ドイ・トゥン山系」の南の端にあたり、 海抜にすると、500mほどで、標高差にすると100mちょっとの低い山です。
 独立峰ではありませんが、山頂付近は、周囲よりいくらか高みになっていて、見る位置によっては、独立峰のように見えることもあります。

 この山の東側から南側にかけては(上の写真では、右から左)、遠くメサイ方面から続いている石灰岩地帯の「断層崖」の一部で、この山全体も石灰岩の塊のようなものです。
 実はこの山並み、北タイの南北に連なる小山脈すべてがそうらしいのですが、「ヒマラヤ造山運動」によってできただそうで、ヒマラヤ山脈の最東端といってもいい位置にあり、北の雲南、桂州あたりと南北につながっている山並みということらしいです。

 このあたりの断層崖には、大小数々の石灰岩洞窟があり、中に入ることが出来る鍾乳洞など観光名所になっている洞窟も幾つかありますが、先史時代、先住民族が、穴居生活をしていたころには、住居として利用され、またその後、仏教やバラモン教が入ってきてからは、「ルシー(ฤษี)」や「僧」の修行場所としても利用されてきた洞窟も多いようです。現在でも、僧侶が断食修行の際、お籠りする洞窟が、メサイをはじめあちこちにあるようです。
 (注) 「ルシー」というのは、虎の皮の褌(ふんどし)を身に着けたバラモン行者のことで、北タイのあちこちの伝説に登場する修行者です。日本へも、この「ルシー」は、「鬼の伝説」になって伝わっているようです。

 頂上の北西側(上の写真の山の向こう側)は、火山の火口のようなすり鉢形の地形になっていますが、面白いことに、直径数百メートルのこのすり鉢型の土地から流れ出る川がなく、豪雨が降っても、ほとんどが地下深くにしみこんでしまうようです。一種のカルスト地形と考えてもよさそうです。

 この「ドイ・トゥ・ルン(トゥ・ルン山)」は、ここから40kmほど上流の水源(フア・ナムカムといいます。)から「メカム川」が、谷あいを流れ下ってきて平地にでたところで、なだらかな「扇状地」を形成する、ちょうど扇の要のような位置にあって、東側に眺望がひらけ、この山の頂上に立つと、チェンセン・メチャン盆地が一望できます。
 今回祭りのあった「山の寺」の境内は、「ドイ・トゥ・ルン」の東側のふもとと道路にはさまれた狭い場所(上の写真の手前側)に位置しています。

 ちなみに、メカム川を挟んで南側にも、全山、石灰岩でできた「ドイ・パー・マー(馬岩山)」山系があり、その東端に、もうひとつの「山の寺」、「ワット・ドイ・トゥ・ムー」があります。
 この寺は、僧侶が馬に乗って托鉢して歩くことで有名になり、テレビなどでも時々紹介されていて、バンコクなどからの参詣者があとを絶たないほどの賑わいです。正式名称(?)は、「ワット・タム・パー・アチャトーン」というらしいです。住職は、「カセサート大学」卒業のインテリで、以前は懇意にしていたのですが、悪い噂がたったこともあって、すっかり遠ざかって当方から縁を切ったようなことになっております。
 遠方までは、暗い話は伝わらないようで、こんな偉い坊さんのいる寺へ出かけないなんてアホとちがうかなんて、寺詣でにやってきた都会者に馬鹿にされたことがありました。

「山の寺」の由緒

 「山の寺」、正式名称は 「ワット・プラタート・ナーン・コーイ(วัดพระธาตุนางคอย ) 」で、「人待ちする貴婦人の仏塔(チェディ)のある寺」という意味です。
 この寺の仏塔(チェディ)の写真は、『 チェディ落慶法要 その1』 を ご覧ください。

 前の住職、「トゥ・ルン( ตุ๊ลุง )」の名に因んだ、「ドイ・トゥ・ルン(トゥ・ルン山)」の山すそに位置しているため、「ワット・ドイ(山の寺)」とも呼ばれています。
 タイの公式の寺院は、かつての日本の神社(官幣大社とか郷社など)のように組織化されています。県の寺、郡の寺、町の寺、村落の寺といった具合に格付けされていて、それぞれ役割分担をしているようです。
 飛鳥時代・聖武天皇のころの「国分寺」を思いおこさせるような寺社組織です。

 「ワット・ドイ」は、正式には認可されてはおりませんが、宗教庁からの援助などは皆無ではないようで、モグリということでもなさそうです。2015年現在ですが、本堂の改築が予定されていて、これを機会に、宗教庁に正式認可の申請をするようです。

 末端の村落の寺も、国の宗教庁(?)に認可されると、国の管轄下に入り、寺域(シマ)が公認されるようになります。
わが村、ノンギエン村には、開村当時に作られた寺、「ワット・ノンギエン(ノンギエン寺)」があり、20年近く前に、やっと国から認可され、盛大な祝賀行事がありました。

 村の寺の住職は、村内の冠婚葬祭の行事では、主席僧侶の役を務めますが、非公式(?)な「山の寺」の住職は、冠婚葬祭の席に招待されたとしても、首座をしめることはありません。

 「山の寺」の開山は、前住職の「トゥ・ルン( ตุ๊ลุง )」といってもさしつかえないかと思います。
 寺の体裁をなしていなかった僧坊(?)跡に、前住職が、現在の寺の原型を作り上げました。30年近く前のことです。

 前住職「トゥ・ルン」は、正式に得度した僧侶ではなく、どこからやってきた人なのかも定かではない、流れ者だそうです。噂では、刃傷沙汰を起こして、隠れ蓑に僧職に逃げ場を見つけた人のようですが、北タイでは、よくあることだそうです。
 顔には、刃物で負ったらしい傷あとがあり、眼光鋭く人品骨柄も、そんな感じの坊さんでした。
寄進したり奉仕したりする信者を見かけることは、滅多になかったにもかかわらず、いつの間にか、本堂や庫裏など、ささやかながらも「伽藍」が出来上がっていきました。
 「ドイ・トゥルン」の頂上にも、チェディやサラの建造が始まっていましたが、「トゥ・ルン」の死によって頓挫してしまい、未完のままになってしまいました。

 わがパヤーン部落に電気が入ったのは、30年近く前のことですが、その頃、山の頂上にも蛍光灯がともり始め、夜間、メカムの町あたりからでも、この山の頂上を確認することができました。
 この部落に電気が入った頃のことですが、電柱や電線など電気設備に要する費用が足りないということで、坊さんから借財を申し込まれ、3万バーツあまり貸したことがありますが、どこから工面してきたのか、約束どおりに返金してもらえたのに感激し、帰してもらった全額をそっくり「寄進(ボリチャーク)」したことが忘れられません。

 この坊さん、僧衣姿をしていても、受戒して出家したわけではなかったようで、やはり俗人の気が抜けないようで、女色も忘れがたかったらしく、村内の女性と懇意になったりなど、このあたりでの評判は散々でした。
 後ろめたさもあってか、托鉢などできなかったとみえ、托鉢姿をみかけることもありませんでした。自炊して自活していたらしいのですが、あるとき、食中毒にかかり、50才そこそこで、あっけなく亡くなってしまいました。

 当時は、このあたり、乾期に入ると山焼きが行われるのが、ふつうで、はげ山に近かったのですが、ドイトゥンに国王のご生母が越してこられた頃から、山焼きが禁止され、今ではすっかり緑がよみがえっています。頂上付近に、「トゥ・ルン」が、植えた「火炎樹」がふえて、乾期の中ごろには満開になり、遠めには往時の山焼きのように真っ赤になります。そのうち、この「火炎樹」が山のすその方まで繁茂し、全山、真っ赤という時代がやってくるかもしれません。そのころには、「ドイ・トゥルン」は、観光名所のひとつになるかもしれません。

 登ってみると、この山、なかなか見晴らしがよく、そのうち、ロープウェイなどを計画する観光業者などが出てこなければいいがと思っていましたが、今のところ、そんな話もなさそうです。

 今の住職、「トゥ・サック(ตุ๊สัก)」は、うちのかみさんと同年輩の聡明な(?)坊さんですが、なかなかな野心家であるらしく、「トゥ・ルン」が亡くなってしばらく空き寺になっていたころ、この寺のすぐ近くにある洞窟に籠って修行していたときに、仏様のお告げがあったということで、この寺に入って再建を始めました。メカム町出身の素性のはっきりした僧侶です。
 村人たちからの信頼も厚く、実家のあるメカムばかりか、チェンライ、チェンマイ、遠くはバンコクあたりからの寄進もあって、本堂の改築、大きなサラの新築、また、寺の由緒や大きさに似つかわしくないほどの壮大なチェディの建設など、次から次へと普請を行っております。
 立派な「庫裏」が完成したとおもったら、今度は、本堂の新築を計画しているようで、近々、本堂も解体新築することになっております。

「庫裏」の落慶法要

 「チェディ」が完成して、その落慶法要が済むと間なしに、庫裏の新築の準備に入り、工事の始まった夏頃からは、あれこれ準備に忙しく、買い物などに付きあわされたこともたびたびでした。
 この部落の善男善女、メカム自治区の住職の実家の近所の人たちなど、数日前から、あれこれ準備していたようでした。
 今朝は、5時前から、寺の境内に据え置かれた大形拡声器から、数キロ先まで、聞こえるのではないかと思われるほどのボリュームで、ランナー・タイのクラシック音楽が流され、空が白み始める頃からは、奉加帳の読み上げが聞こえてきました。
 ほとんどすべてが、20バーツ。こんな場合の寄進というのは、20バーツと定められているのかと思われるほどです。日本円に換算すれば、65円くらいですが、生活実感からすると、2〜300円といったところでしょうか。
 昔に比べれば金回りの良くなった田舎、各家庭の負担としては、それほどではないかもしれませんが、家族の頭かず一人につき20バーツというのは、「はした金」ということでもなさそうです。
 10年以上昔のことですが、以前はこんなとき、ひとり5バーツくらいが相場で、まれには1バーツなどということもありました。

 庫裏の建設費用を全額寄付した奇特な信者があらわれ、去年の春先頃から建設が始まりました。
 10m×15mほどの総2階建て。1階は、食堂などに使われる大広間になっていて、奥の方に、台所と準備室のような小部屋があります。2階が僧侶やシャミの居住空間になっているのですが、当世風の便器を備えた共同トイレのほか、個室が5部屋あり、住職用の部屋は40uほど、あとの部屋は、20u弱かと思われます。たたみ10畳ほどの広さです。
 庫裏の裏の信者用のトイレも改築され、庫裏の西隣りには、古材を利用したちょっと洒落た厨房も作られています。



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 新築なった「庫裏」の正面です。
 間口が10mほど、奥行きが15mの2階建ての建物です。

 真ん中で、向こう向きに立っている坊さんが、住職の「トゥ・サック」です。

 「チェディ」の時ほどではありませんでしたが、今回もまた、誇らしげに動き回っておりました。
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 寄進の受付には、見習い僧(パ、中部タイ語では、サマネンという)や近 所の子供たちが座っていました。

 家族一人につき、20バーツというのが、普通の寄進額のようでしたが、寄進をした人には、「カム・ライ(ムー)」という、厄除けのブレスレットがもらえます。

 受付の横断幕には、「善徳のご縁に、ご寄進をどうぞ」とかかれております。
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 「シーブンルアンさんの庫裏」と書かれた、建設資金を全額寄付した信者の額。

 ランプーン県の資産家の女性ですが、最近教育者でもあるご主人を亡くされ、後継の子供にも恵まれなかったため、北タイのあちこちの寺に多額の寄進をしている方だそうです。

 この資産家から寄進を受けるためには、申請をするのだそうですが、おメガネにかなったところだけが、今回のような寺普請などの費用を頂戴できるのだそうです。
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 「庫裏」の玄関から、中をのぞいたところ。
 立っている坊さんは、かつての修行仲間
、住職と同じメカム町出身の「トゥ・エット」。
 現在彼は、チェンライ市の西方、「クンコンの滝(ナム・トック・クンコン)」の近くの集落の住職です。
 この集落は、ベトナム戦争時代にラオスから逃れてきた難民たちによってつくられた集落で、大変貧しい村です。
 寺に寄せられた寄進さえ、村人が当てにするような村で、「トゥ・エット」は、村長などにいじめられ、追い出されるようにして、この「山の寺」に身を寄せていたことがありました。
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玄関を入ると、10m四方ほどのワン・ルームになっていて、普段は、僧侶たちはここで食事を取ります。
 また、見習い僧たちの勉強用の教室としても使われます。
 ただ、現在は、見習い僧たちも、毎朝、メカム寺の僧侶学校に登校して行くため、ここで講義など行われる機会はあまりないかもしれません。

 この部屋の右手に、2階への階段があります。
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 大部屋の裏側に、小さな流し台の、台所がつくられています。
 飲み物を用意したりする程度にしか利用できそうもありませんが・・。

 その隣りには、食料品の保存庫、作業準備室などをかねた小部屋があります。
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 階段を上がったところです。
 正面の部屋が、住職用の部屋で、他の個室の2倍ほどの広さがあります。

 「トゥ・サック」住職は、いままで本堂の裏手の崖に引っかかるように作られた懸崖式の「数奇屋つくり」の庫裏を使っていました。
 パソコンのセッティングなどで、時々入らせてもらいましたが、急勾配で、狭い階段を上り下りするのは、ちょっとばかり怖い思いをしてました。
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 左側のドアーは、僧侶の個室です。住職の部屋以外に、4室あります。 

 右は、共同トイレで、水浴びもこの部屋でできるようになっています。
いまどきのしゃれた便器がついています。

 これからは、よほど特別な用事でもない限り、一般の人は、2階へは入れません。特に女性は立ち入ることのできない「女人禁制」のスペースとなります。
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 個室の中のようすです。
 15uほどの狭い空間で、押入れのような収納設備は一切ありません。何もないガランとしたスペースです。

 東側に、小さな伝統的な窓がついているだけです。
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 新築された庫裏の裏側に、来客用のトイレも整備されました。

 寺の祭りなどの行事のときに、大勢の信者がやってきますので、そのために、12ヶ所の男女別トイレが用意されています。
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 取り壊した前の庫裏の古材などを利用して建てられた寺の台所です。
 「トゥ・サック」は、滅多に托鉢には出ないため、ここで自炊することが多くなりそうです。

 大きな行事などの振る舞い料理は、この厨房だけでは、狭すぎるため、トイレの向こう側に、竹製の広い縁台が作られていて、そこを利用することが多くなりそうです。
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 今日の僧侶用の食事です。
 集まった善男善女にふるまわれた料理(後述)とまったく同じものです。

 僧たちは、まともな食事は、昼前のこの食事1回だけです。
 朝は、菓子パンの類と飲み物だけ、正午を過ぎると、固形物の飲食は、戒律によって禁じられており、夕食時間頃、軽い飲み物をとるだけのようです。
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 今回の行事のふるまい料理は、「トゥ・サック」の実家のあるメカムの町内会のご婦人たちによって作られました。

 いつもは、わが「パヤーン集落」の女性たちの仕事でしたが、今回は遠方から出張してきたようです。

 田舎の女性の料理では、街場からの寄進者などに恥ずかしいと思われたのかもしれませんが、わが集落の婦人たちにとっては、面白くないことだったようです。
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 右は、玉子焼きつきの「パッタ・パオ(パッ・カパオ)」、豚のひき肉をクラパオという香味野菜と炒めたもので、ご飯にのせて食べるのが普通です。
 左は、「パッ・タイ」、タイ風の焼きそばです。麺は、「ひもかわ(きしめん)」状のビーフンです。砂糖を使っていて、甘いもので、上にはピーナッツの粉がかけられています。
 使い捨ての容器など、時代の流れでしょう、ご婦人たちの手間はずいぶん楽になりますが、廃棄物は多くなりそうです。
 会場のあちこちに、ごみ袋が用意されていて、タイの田舎にも、都会風の習慣やエチケットが浸透しつつあるようです。
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 わが「パヤーン集落」のご婦人たちは、今日は、「お客さん」です。
 そうはいっても、よそから来た人たちは、あれこれ勝手がわからず、男が厨房に立ったのとおなじで、細かいことに関しては不手際が多く、影で協力していたようです。
 夕方の食事までは用意されていなかったため、わが部落の主婦たちが、夜食用に「カオ・トム(タイ風の粥)」などの用意をしていたようです。
 使い捨て容器が使われていたため、翌日の後片付けもしなくてすみそうですが、いつもはある片づけが終わったあとの「慰労会」のチャンスがなくなったのは不満かもしれません。
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 ご高齢(プー・スーン・アユ)の信者たち。
白装束というのが、礼儀にかなったものらしいですが、普通の外出着の人も。

 寺の祭りには、お年寄りの出番があります。昔からのしきたりをよく知っているのは、彼らだからです。
 祭りに使われる聖糸など準備するのもお年寄りということが多いようです。
 おおむね60才以上で、この村に越してくる前に、ランプーン県などで、育った人も多いようです。
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 来賓などの席。
祭りの本格的な行事は、夕方からで、
まだ、来賓はちらほらといったところ。

 ずっと、奥のテントが、仮設の厨房で、
振る舞い料理の準備中です。

 左端にチラッと見えるのは、夜になって
上映される野外映画会用のスクリーンです。
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 寺の門前に並んだ、縁日。
食べ物やがほとんどですが、なかには、
おもちゃや工具類などを売っている店も。

 1軒だけですが、わが集落内の人も
店を出していました。
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 チェディの手前に張られたスクリーン。
写真では、きれいに見えますが、大きな
接ぎはぎも見られ、かなりくたびれている様子。
 
 映写会を請け負ったのは、メサイの
業者ですが、最近では、滅多に声が
かからないようで、映写設備などは、
骨董品クラスの大昔のものでした。
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 田舎のディスコ。
これも最近では、滅多に見られなくなったものですが、夜遅くになると、ここがダンス会場になります。
 1枚10バーツのクーポン券を買って、中に入ると、若い美しい(?)女性たちと、ダンスをさせてもらえます。1曲毎の入れ替え制ですが、お目当ての女性がいたりすると、何回でも入場するようです。
 数年前までは中の女性は、マイクロ・スカートというのが普通だったのです、シリキット王妃の苦言があって、今は普通の民族衣装のようです。
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 本堂の仏壇に供えられた「金のなる木(コーターン)」。
赤い3本の木は、それぞれ1万バーツ近い紙幣が、竹の串につけられています。

 経済成長のおかげで、このような大金も、
普通の信者たちから、寄進されるようになったようです。

 これは、メカム町の信者たちのものですが、わが集落のものは、20バーツ紙幣がほとんどで、1本で、1000バーツほどしかないようです。
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 これから「金のなる木」を奉納するために、
寺の門の外で待機しているところです。
 鉦(ゴング)・太鼓(象足鼓)などの伴奏で、踊りながら、入場します。

 寺の前までは、ピックアップ・トラックで、
やってくるのですが、道中もドンちゃん騒ぎ。
 
 モン・モン・モーン〜♪ と、いうのが、祭り囃子の表現です。
 この音を聞くと、老若男女、誰もがうきうきしてくる祭りの音です。
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 奉納踊りのトップ・バッターは、メカム町の子供たちの、「イコー・ディスコ・ダンス」。
 5、6才から、10才くらいまでの、10人の小学生たちが、「アカ族」の衣装で、ディスコ・ダンスを披露。

 わが村にも、「イコー・ディスコ」のダンス・チームがありますが、今回は出ないことにしたようです。
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 寺の門の内側にならんで、「花吹雪」の出番を待つ、お年寄りたち。

 
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 「サバッチャイ」 (その1)

 『チェディの落慶法要』でも書きましたので、詳しいことは省略しますが、「勝利の太鼓踊り」です。
 「バチ」で太鼓をたたくばかりか、肘、膝、頭なども使う曲打ちの妙を見ることができます。
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 「サバッチャイ」 (その2)

 録音状態が、よくありませんが、ここ に音を入れてあります。
興味のある方は、ダウンロードして、お聴きください。
 『サウンド・ライブラリー』の民俗芸能のページからもアクセスできます。

 この写真は、無重力状態の写真ではなく、太鼓の打ち手が、太鼓に飛び乗って、今、まさに向こう側にひっくり返される瞬間です。
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 「花吹雪」のまかれたあと。

さまざまな色のきれいな花びらが、
奉納行列にむかって撒かれますが、
なかには、米も入っておりました。
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 わが愛しの君です。

「チェディ」の落慶法要のときにも踊りを奉納していたのですが、
 そのときは、6歳でした。
あれからちょうど2年が経過し、もう、8才になりました。
 
 メカム町の踊りの天才です。
踊りがうまいだけではなく、どこにいても、どんなときでも、笑顔を絶やさない愛くるしい女の子です。

 いつの日にか、タイ国内はおろか、世界のヒノキ舞台に登場することがあるかもしれません。
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 恋人 (その2)

何もいうことはありません。


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 飾り立てられた、庫裏の玄関。
国旗にはさまれている黄色の旗は、国王旗です。

 昨年は、プミポン国王即位60周年。
今年は、80才と、2年続きの、おめでたい
年で、このような祝賀の行事にも、必ず黄色の旗が登場します。
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 『閑話休題』

普段では、滅多に食べられないご馳走を頂戴し、満腹になった「寺の猫」は、大音響の大騒ぎなど、なんのその、寺の塀の上で、
お休み中です。

 さすがに「寺の猫」、このような大騒ぎには、慣れっこなんでしょう。
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 夜に入って、また、奉納行列の一行が、やってきました。
 左から、シンバル、象足鼓、鉦(ゴング)。
 
 明日、花火のコンテストが行われるのですが、今夜打ち上げる奉納花火を運んできたところです。

 明日のコンテストの1等賞金は、5000バーツだそうです。
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 これが、手製の花火です。

コンテスト前、今夜のために花火を奉納しに来た、「タイ・ヤイ(シャン族)」の、
人たちは、誇らしげです。

 手製花火の技術は、彼らの独壇場で、平地のタイ人(コン・ムアン)にはないものです。

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  日本にも、これに似た「手筒花火」が、ありますが、地面 に穴を掘って埋め、首だけ出した状態で点火します。
 ゴーゴーと音を立て、10m以上の高さまで、火柱が立ち、火の粉が四方に飛び散ります。 持続時間は、このクラスだと、ほんの10数秒のようですが、豪快な「火祭り」です。

 打ち上げの様子などは、以前紹介した「チェディの落慶法要」の なかにあります。
 ここ などに掲載してあります。
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 夜の映写会の映写機械です。

ピック・アップ・トラックの荷台に設置されていて、中では、「映写技師」が、監視(?)していました。
 2本立てで、そのうちの1本は、「シャローン(ジャッキー・チェン)」主演の洋物カンフー映画だったようです。

 最近は、テレビの普及で、映画を見る機会も減ってしまいましたが、これはこれで、また、楽しいもののようでした。