「 コ ン・ムアン 」               ( 2007 02 04 初稿 )

 北タイの平地に住む「タイ人」を、「コン・ムアン」とい う。
「ムアンの人」という意味だが、「ムアン」というのは、多数の村落(バー ン)の集合体で、日本の昔の「・・郷」に近い。
 ときには、ひとつの「ムアン」で小国を形成することもあったかもしれないが、一般的には、複数の「ムアン」が連合して「国」を作る。
 中国大陸の西部から、東南アジアの海岸地帯にいたるまで、「ムアン」に由来する地名が、広範囲に存在する。これらのすべてが、タイ系民族の「ムアン」であるといわれている。
 「ムアン」の長(おさ)を「チャオ・ムアン」というが、チャオ・ムアンの中の有力者が、王になる。有力ムアンの中心ともいえる都邑を「フア・ムアン」という。「ランナー王国」の「ムアン・チェンマイ」もそのような「フア・ムアン」のひとつである。

 余談ではあるが、各県の県都を含めた郡を、「アンプー・ムアン(県都郡)」と呼んでいるが、古来の政治制度の名残である。

 タイが多民族国家であるということは、何回か書いた。
『 タイで生まれて、タイ語を話すことができれば、”タイ人” 』 ということになっていて、タイに住むタイ語族系の間では、最近になって流入してきた難民などを除くと、「民族」が問題にされることあまりない。
 「コン・ムアン」という言葉をはじめて耳にしたのも、懇意にしている山岳民族の若者からのことである。
 彼は、”平地のタイ人も多民族の混血・混成によってなりなっているのに、「コン・ムアン」なんて”と、皮肉まじりに言っていたことが記憶に残る。

 中部、南部のタイ人を「コン・タイ(南の人)」、東北タイのタイ人 を「コン・イサーン(イサーンの人)」、バンコクのタイ人を「コン・クルンテープ(バンコクの人)」などというが、北タイ人の場合には「コン・ヌア(北の人)」という。これらは、「関西人」、「関東人」などと同じく、出身地を基準にした呼び名で、「民族」概念に基づく呼称ではない。

 「コン・ムアン」というのは、「コン・ヌア」などと同じように、出身地をベースにした呼び名だが、民族的な意味合いも含んだ呼称である。
 20世紀初頭になってはじめて登場した呼称だそうで、100年そこそこにしかならない新しいものである。
 現在では、「ランナー・タイゆかりのタイ人」 という意味あいで使われ、新参の民族と北タイ土着のタイ人(ランナー人)とを区別するために使われる。

 【コン・ムアンのいわれ】
 北タイの歴史を簡単にふりかえってみることにする。

 インドシナ半島一帯の先住民族、モン・クメール語族が住みついていた土地に、北方からあちこちに小国を作りながら、タイ人の祖先たちが南下してきたのは、西暦紀元前後のことであるらしい。
 そのころにはすでに、タイ語系の言語を使用する民族集団は、中国南部、長江流域から、西はインド北東部のアッサムにまで、多くの民族支に分かれて拡がっていた。
 タイ語族に属する民族が、これらの地に拡散していったのは、北方から有力な「漢族系」の民族が華中・華南方面に南下してきたことが大きな圧力になっていたらしいが、この過程で、「漢族系」の民族との混交も進んだようである。
 現在の華南一帯の中国人(広東人など)は、北方からの漢族が、先住民族である「タイ語族系民族」の地に入り、混交して出来上がった民族であるらしい。広東語など南部の中国語には、先住民族の「タイ語系」民族の言語との共通点が多くみられるようである。

 インドシナ半島の北部から雲南・貴州あたりにかけては、山と谷や盆地が、複雑に入り組んでいる土地柄である。それらの谷あいの盆地は、稲作に適した土地で、山の幸・水の幸に恵まれた暮らしやすいところで、さまざまな民族が集落や国を形成して暮らしてきた。
 それらの国のひとつから、「メンラーイ」という英雄が登場し、国の長(おさ)になったのが、西暦13世紀中ごろのことである。
当時は、衰えたりとはいえ、先住のモン・クメール族の支配は、北タイにまで及んでいた。
 中部タイの「スコータイ」に、「シャム族」が台頭してきたのも、このころのことである。すでに、「タイ語系民族」は、クメール帝国の版図深くまで浸透し始めていたらしい。

 やがて、「メンラーイ」は、チェンセンにあった都城を、コック川を遡って、チエンライ、ファーン、チエンマイ(新都という意味)へと移した。「ランナー王国」の建国者である。
 この彼と行動をともにしたタイ語族系の民族が、「タイ・ユアン族(チエンマイ人)」のルーツである。単に「ユアン族」ということもあるが、ベトナムの「ユアン族」と紛らわしいため、「タイ・ユアン」ということが多いが、もしかすると、それらの民族間には、何らかのつながりがあるのかもしれないが、そのような資料に出会ったことはない。

 「メンラーイ」は、「ラオ族」および「ルー族」の血を引いた「混血タイ族」だったそうだが、のちに「タイ・ユアン族」といわれる人たちも、これらのタイ語族などの混交した民族にちがいない。
 「メンラーイ」の子の代には、北は雲南南部、東はメコン川を越えてラオス・ベトナムの北部にまで、西はビルマ東北部一帯に、その支配地域がひろがり、民族的な融合が進んだにちがいない。

 「メンラーイ」の死後、数世代で「ランナー王国」は、後継者争いなどもあって急激に衰退し、現在のチエンマイを中心とした狭い範囲(チエンマイ・ランプーン・ランパーン)だけを版図として細々と生きながらえることになるが、弱小国の運命で、16世紀半ばから18世紀後半まで、200年あまり、隣国ビルマの支配下にあった。この時期、他民族による支配を忌避し、ほとんどの「ランナー人」は、「チェンマイ」を離れて、山野に逃れた。
 「ビルマ人」が「ランナー」を支配している時期、逃散した「ランナー人」といれかわりに、多くのビルマ系の民族が「ランナー」にやってきた。これらのビルマ系民族の子孫が「マーン族(ビルマ族)」、「トン・スー族(カレン族系)」などである。

「ランナー」が、ビルマのクビキから開放されたのは、列強による植民地支配の時代の到来による。
 この時期、シャム族の「アユッタヤ国」を殲滅し、日の出の勢いだったビルマが、英国の植民地軍との戦いに疲弊し衰退していった。この期に乗じて「シャム国」は再興を果たすことができた。さらにその余勢をかって、ビルマが支配していた北タイ北部まで勢力をのばし、インドシナ半島北部一帯を影響下においた。
同じ「タイ語系」民族のシャム族の支援のもと、「ランナー王国」は、つかの間の復活をするが、やがて、「シャム」の直接支配がはじまり、その歴史の幕を閉じる。

 シャム族による「ランナー」支配が始まって、ビルマ系民族の追放が始まり、旧都チエンマイ一帯は、無人の廃墟に等しい状況に陥り、旧「ランナー人」の再結集が図られた。「 コン・ムアン 」という呼称が生まれたのは、この時期のことである。

 ”わしゃ、ビルマじゃなく、ランナーの者だ”という意味合いで、「コン・ムアン」が使われたのだそうである。「コン・ムアン」という言葉は、彼らの自称から始まったものである。シャム政府は「コン・ムアン」を、「ラオ・シャン( シャ ン の ラオ人 )」と呼んでいた。

 この「ランナー人」再結集に集まってきた民族の主体が「タイ・ユアン族」であり、そのほか「ルー族系」や一部の「タイ・ヤイ」なども、「コン・ムアン」を称したようである。

 「ランナー王国」が復興して間もないころ、チェンマイのはるか北、現在のシャン州にある「ムアン・ヨーン」から、2万人ほどのタイ語系民族のランプン県・パサーン郡への強制移住が行われたことがある。「ランナー王国」の人口不足を補うための施策だったようである。彼らの子孫を「ヨーン族」という。彼らも、もとをただせば、「チェンルン(雲南南部)」の「ルー族」だったようである。

 バンコク政府の支配下になってからは、多くの「シャム族」 が「ランナー」に入植してきた。彼らの子孫が「タイ・タイ(南のタイ)族」である。

 チエンライ、パヤオなどの北タイ東部もまた無人状態になっていた。アユッタヤ時代にビルマ軍に参加したこの一帯の住民、「タイ・ヤイ族(シャン族)」や「ルー族」の多くは逃げ出してしまっていた。
「ランナー」が一段落した後、この方面へも、住民の移住が図られるようになる。
「ランプン」、「ランパーン」からの「ル−族」系の「コン・ムアン」がほとんどだが、ランプン県パサーン郡の「ヨーン族」も、メカム川流域一帯と地域を指定して移住させられた。
 わがメカム町界隈には、「ヨーン族」の言葉、「ヨーン語(ウー・ヨーン)」を話す「コン・ヨーン(ヨーン人)」の集落が多い。
 このころから「ヨーン人」も「コン・ムアン」の仲間入りをしたようである。
「ヨーン語(ウー・ヨーン)は、「ユアン語(ウー・チェンマイ)」や「ルー語(ウー・ラオ)」とは、語彙の一部に違いがあるばかりか、声調がかなり異なる。そんなこともあって「ウー・ヨーン」という言葉は時々耳にするが、他の「平地のタイ人」たちから差別されているということもなさそうである。

 大戦後、中国の政治変動、インドシナ紛争、ビルマの政変などによって、周辺諸国から、多くのタイ語族系や非タイ語族系の民族が流入してきているが、それぞれの民族の風俗習慣を維持しながら村落(ムー・バーン)を形成している民族については、それぞれの民族呼称が使われている。それでもなかには、「コン・ムアン」の中にまぎれこんで「コン・ムアン」の仲間入りをしている人も多いようである。
 今では、「コン・ムアン」という言葉の定義もなんとなくあいまいで、あまり重要ではなくなってしまった感がするが、近年、地方の独自文化の復興の動きの中でまた、「コン・ムアン」という言葉も復活しつつあるようである。「北タイの文化」を、「ワッタナタム・コン・ムアン」とか「ワッタナタム・プン・ムアン」とか呼んでいるが、「コン・ムアン」とか「プン・ムアン」を冠した言葉が、しばしば見られるようになってきた。
 「北タイ」、「ランナー」、「コン・ムアン」、セットになっているもののようである。

 当節、国際的な難民保護運動や少数民族支援活動にくわえて、観光資源としての重要性からか、「チャオ・カオ(山の民)」と呼ばれる山岳少数民族の方が、何かと日の目を見ていて、「コン・ムアン」は政府施策でも後回しになっているような気がしないでもない。チェンマイ出身の政権が転覆させられたことは、「コン・ムアン」にとっては、かなりショッキングな出来事だったようである。


    (参考) 拙稿、チエンライの(少数)民族