チェンライの(少数)民族
中国南部からインドシナ半島にかけては、非常に多くの「民族」が暮らしているが、住民の交流が盛んになった現代社会では、民族固有の文化ばかりか、人種的特徴なども、あまりはっきりしなくなってきている。 昨今は、外来の文化が地方にまで浸透し、世界共通の文化にどっぷりと使ってしまい、祭祀などの場以外では、民族の特徴を確認できるような状況はなくなってしまった。 いまさら「民族分類」などしてみても、あまり意味がないような気がしないでもない。 そうは言うものの、個人的には、民族のルーツに興味があり、「日本人の祖先は?」というテーマには、こだわりをもっていて、資料あさりなどしているのが現状である。 タイ王国は、「多民族国家」であることは、よく知られていることであるが、ご多聞にもれず、当県内にも、日本人や西洋人を含めると、100近くの「民族」が暮らしているにちがいない。 150万を超すチェンライ県の人口のうち、7割以上が「コン・ムアン」と呼ばれる「ルー族」系のタイ人で、とりわけ平地の農村部では、9割以上と推測できる。一方、都市部や商店の多い町場では、華人系の民族が目につく。いわゆる「山岳少数民族」に含まれる民族の人たちは、県内の人口の1割未満だが、そのほとんどすべてが、山間部に居住している。 足の便が良くなった現在では、市場などで物売りなどしているものや、買い物に出てくる、それらしき人たちの姿はよく目につくようになった。ただ、民族衣装を着用しているものはめったに見られず、山岳民族と判断することは難しい。 ちなみに、常住している日本人、あるいは日系人の人口は、1000人未満のようである。それでも、昨今は、あちこちで同胞と鉢合わせすること多くなった。 かつて、タイでは身分証や住民登録証には、国籍のほか民族の出自を記入する欄があり、その気になれば、民族統計の資料を作成できたかもしれないが、現在はこの欄は廃止されてしまい、正規の身分証を入手できない一部の山岳民族の人口資料はあるものの、国民全体の民族別人口などというのはないので、詳しい民族ごとの人口情報はわからない。 過日、チェンライの元刑務所跡にできた公園内の民族資料館で、『 チェンライの30民族 』と題して県内に居住している少数民族の衣装が展示されているのを見かけた。 展示されている民族衣装は、チェンライ中央警察署の北にあった、もとの「メーファールアン・ミュージアム」から移設されたもののようである。 『 チェンライの30民族 』は、書籍として出版もされているようだが、見たことはない。 「ランナー・タイ」の少数民族については、「チェンマイ・メイジョー大学」のWEB, ここ が詳しい。 タイ語の読める方には、お勧めのサイトであるが、残念ながら、2009年2月現在、ブロックされていてアクセス出来ないようである。 「 チェンライの30民族 」の展示は、刑務所の獄舎を改装して、ほとんどそのまま展示場にしてあるため、中は暗く狭く、展示物の背景が開放された格子窓で、被写体が逆光になるため、安物のデジカメと未熟な腕前では、きれいな写真は撮れなかった。 それでも、いくらかは参考になればと、紹介することにした。 ![]() マネキン人形に着せられている民族衣装は、実際に各民族の構成メンバーが着用していたものようで、観光用に用意されたものではない。 それぞれの衣装が、それぞれの民族の衣装の一般的な衣装だったのかどうかは定かではない。いくつかの民族の衣装や髪型などについては、疑念もないわけではないが、実際に着用していたのだといわれれば、それに従わざるを得ない。ここを訪れた客に注文をつけられることもあるのか、着付けなどが変わっていることもある。 また、各民族の印象が、マネキンの顔の表情などに左右されがちだが、顔かたちなど、細かいことは、目をつぶるしかない。 民族衣装というのは、それぞれの民族のアイデンティティを具現したもので、ふだんはともかく、かつては外出時には正装として必ず着用したもののようである。 多民族が行きかう北タイでは、同胞を見分けるためにも、重要な役割をしていたものと思われる。 北タイの街中で、このような民族衣装姿にお目にかかれたのは、おそらく数十年前までのことで、すでに20年前には、一部の山岳少数民族を除けば、このような姿で外出するものはほとんどいなかったようである。現在では、その山岳民族ですら、民族衣装で外出することも少なくなってしまい、コレクターに売り渡してしまい、伝統衣装などもっていないため、いざというときに困ることもあるらしい。 最近では、新しくあつらえた民族(?)衣装が、祭りなどの民俗芸能の演技用などに着用されることがあるが、伝統の民族衣装とは、いささか異なるなどということも珍しくない。 展示されている民族衣装は、あまりきれいなものではないし、色あせてはいるが、貴重な資料であるにはちがいない。 写真の脇に書き込んだ各民族の簡単な解説などは、展示場内の説明書きを参考にした。これにも、間違いがあるような気がする。展示物の配列順も、原則など全くなく、いかにもタイ人らしい。 ここでの掲載順は、タイ語族系と非タイ語族系を分けるなど、展示場の配列順とは変えてある。 なお、展示場内には、民族衣装のほか、民具なども展示されており、興味とチャンスのある方はのぞいてみるのもいいかも。入場料は無料である。 タイ人は、民族の出自などについては、めったに口にすることはない。腹のそこでは、差別意識、被差別意識がないわけではないので、「あなた、何族?」などと口にすることはしないのがふつうである。 一見、平穏に見える多民族社会も、微妙なバランスの上に成り立っているわけである。 いささか飛躍ではあるが、チェンライのマジョリティである「コン・ムアン」もこれらの多くの民族の血が交じり合って出来上がった民族であり、また、北タイの「平地のタイ人」社会も、単一民族で構成されているものではないという理解のために、すこしでもお役に立てれば幸いである。 さらには、「日本人」というのも、単一民族ではなく、多民族の混交した民族であるかもしれないということに、想いをめぐらしていただければ有難いがと勝手に思ったりしている。 |
チェンライの30民族
「 コン・ムアン 」 と称している多数派民族の衣装は、この展示場には展示されていない。 「 コン・ムアン 」というのは、「 ランナー王国の住民 」 というほどの意味で、 タイ・ユアン族 [ ไตญวน ] と、ルー族系の 「 タイ・ラーオ族 」 [ ไตลาว ]が、その主要構成民族である。 「 コン・ムアン 」の由来は、拙稿、『 歴史編 コンムアン 』 を参照。 チェンマイ付近に在住するものは、「 コン・チェンマイ 」 と呼ばれることが多い。 「 コン・チェンマイ 」の話し言葉は、シャム語(中部タイ語)の影響もあって、チェンマイ人以外の言葉とは、かなり変わってきている。「 北タイの都ことば 」と言えるのかもしれないが、マス・メディアの影響もあって、北タイ全体にも影響を広げている。
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1. タイ系少数民族 | ||||||||||
![]() 「ヨーン族」のもとの居住地は、現在、ミャンマー領のシャン州・チェントゥーン東方80kmほどの「メコン川」に近い「ムアン・ヨーン」。 「ランナー王国」の末期、「ムアン・ヨーン」からランプーン県に移住。さらにその一部は、20世紀初頭(「ランナー」が「シャム」に併合されたのち)に、メチャン郡メカム川流域などに再移住。 ヨーン語は、「カム・ムアン」と声調がかなり異なることから、彼らのルーツが気になるが、ルーツは「タイ・ルー族」だそうで、民族的に「ヨーン族」とするには、無理があるようである。
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![]() もとの居住地は、雲南省南部・シーサンパンナのチェンルン(景洪)である。 1949年、革命後の中国を逃れて、メサイ郡の「サイ川」下流に移住してきた難民である。 「ルー族」は、雲南南西部に国を持っていたが19世紀半ばまでに消滅し、多くの「ルー族」がタイに流入した。このころまでにタイに入ってきた「ルー族」は、「ルー」とは呼ばない。チェンライの「コン・ムアン」の大多数は、この「ルー」と思われる。我が家のあたりのタイ人も、「ルー」がルーツのようである。
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![]() ルー・ナム・ウー [ ลื้อน้ำอู้ ] ( ルー族 ) 北ラオスの「ウー川」流域が、もとの居住地。「タイ・ナム・ウー」ともいう。チェンライ県南東部のウィエンケン郡・ムアンヤイ町タカーム村に移住してきた。
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![]() ルー・チェン [ ลื้อแจ้ง ] ( ルー族 ) もとの居住地は、北ラオスのムアン・シン の 東南に位置するムアン・ルアン・プー・カである。県内では、チェンコン郡の「ポ村」、「タカーム村」、「パオクット村」などに居住している。
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![]() ルー・チェンカム [ ลื้อเชียงคำ ] ( ルー族 ) 雲南省などインドシナ半島東北部の「ムアン・ポング」、「ムアン・ユアン」、「ムアン・マン」、「ムアン・ホング」、「ムアン・チェンカーング」から、移住してきた人たちで、現在は、主として、チェンカム郡(パヤオ県)に住んでいるルー族の一派である。
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![]() ルー・フエイ・メン [ ลื้อห้วยเม็ง ] ( ルー族 ) もとの居住地は、北ラオスのムアン・シン( 往時、シャム領だったことがある。)。メコン川をわたって、チェンコン郡・フエイメンに越してきた人たちである。
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![]() タイ・クーン [ ไตเขิน ] ( タイ・クーン族 ) ミャンマー・シャン州のサルウィン川西岸のタイ・ヤイの居住地から移住してきた。 単に「クーン族」ということもある。 背丈の高い体格のいいのが特徴であるが、全般的には、ルー族とよく似ていて、ルー族の一派と考えられている。
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![]() ギィヨウ / タイ・ヤイ [ ไตใหญ่ ] ( シャン族 ) 「タイ・ヤイ」は、かつて中国南西部・雲南省に、独自の王国を持っていた。メサイ郡、メチャン郡、県都郡、チェンカム(パヤオ県)などに、移住してきたのは100年以上前のことであるが、その後も、中国・ミャンマーなどの政治変動によって流入し続けている。 メサイ郡の人口の過半数が「タイ・ヤイ」といっても過言ではない。「メホーンソン県」の人口の大半は「タイ・ヤイ」である。
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![]() ラーオ・インドチン [ ลาวอินโดจีน ] ( ラオ族 ) もとは北ラオスなどインドシナ半島北部に居住していた人たちで、メコン川を越えてタイに入ってきたタイ系の民族である。 インドシナ紛争による難民と考えられる。 メサイ郡、チェンセン郡、メチャン郡、県都郡、などに居住。 東北タイ(イサーン)の「ラーオ・イサーン」と区別するために、「ラーオ・インドチン」と呼ぶらしい。
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![]() カム [ ขมุ ] ( カム族 ) もともとの居住地は、ラオス北部。チェンライへは、タバコ工場や精米所の労働者として、20世紀中ごろやってきたもの。 現在、チェンコン郡のフエイコック村、フエイコン村、ウィエンケン郡のフエイカン村などに居住。
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![]() タイ・ムアン・ヌア [ ไตเมืองเหนือ ] ( タイ系 ) 100年あまり前に、雲南省南部の「タイ・ヤイ」の国から移住してきた。現在、メチャン郡・サマフェン村やメサイ郡に居住している。
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![]() タイ・ターイ [ ไตใต้ ] ( シャム族 ) 「ランナー王国」が、シャムに併合されたあと、中部タイ方面から移住してきたシャム族(中部タイ人)。 農民ばかりではなく、官吏としてまたは商業目的で、住み着いた人も多いようである。
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![]() タイ・ヤー [ ไตหย่า ] ( タイ語族 ) もとの居住地は、雲南省のスーマオ(思茅)の北、クンミン(昆明)の南のタオ川流域の周囲を山に囲まれた平地、「ムアン・ヤー」である。 チェンライにやってきた宣教師との縁で、その一部、200家族ほどが、メサイ郡フエカイ村などに移住してきたらしい。
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2. 非タイ系少数民族 | ||||||||||
![]() マーン [ ม่าน ] ( ビルマ族 ) ビルマ族を「マーン」と呼ぶ。 ビルマ族が北タイには入ってきて、すでに久しい。 16世紀半ばから、200年あまりの間は、「ランナー王国」は、ビルマの占領下にあった。「ランナー王国」が独立を維持していた時代にも、チェンライ、パヤオなどの北タイ東部は、ビルマの勢力下にあり、ランナーとシャムに対する前線基地の役割を果たしていた。 北タイ全体が解放されたあと、大半の「マーン」は、ビルマに戻ったが、居残ったものもいた。
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![]() トン・スー [ ต้องสู้ ] ( カレン族 ) もともとの居住地は、ミャンマー南部の海岸地帯で、ビルマが「ランナー王国」を占領していた時代に、チェンマイ付近に移住してきたもの。現在、メサイ郡、メチャン郡内に居住しているものは、比較的最近、シャン州から流入したものが多い。
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![]() イコー [ อีก้อ ] ( アカ族 ) 「アカ族」のもとの居住地は中国南西部・雲南省あたり。 中国の「ハニ族」の一派である。 徐々に南下して、タイ国内での集落の初見は、メカム川上流の村、「ヒンテック」、20世紀の初頭のことである。その後も、コック川以南には拡散していなかったが、1983年になって、2万人あまりの新規流入者があり、隣県にも広がっていった。主たる居住地は、メチャン郡、メサイ郡、チェンカム郡(パヤオ県)である。 県内には、約6万人が住んでいる。県内の最多山岳民族である。 濃い眉毛、つぶらな瞳、鼻高の顔立ちなどは、ギリヤークや、中南米の民族と共通性が見られ、東アジアの古い先住者であった可能性がある。
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![]() ムースー・ダム [ มูเซอดำ ] ( 黒ラフ族 ) 「ムースー(ラフ族)」には、「黒ムースー(ラフー・ナ)」、「赤ムースー(ラフー・イー)」、「クイ・ムースー」など、多くのグループがあるが、生活習慣などは、あまり変わらなようである。 現在、メサイ郡、メーファールアン郡、メチャン郡、メースアイ郡、県都郡の山地に居住している。 ラフ族全体で、県内には、約5万人が住んでいる。
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![]() メオ [ แม้ว ] ( モン族 ) 4000年前には、中国黄河流域に住んでいた民族で、その後徐々に南下し、2000年前ころ、中国南部地方に移り住んだ民族らしい。 細目、一重瞼のモンゴル系の顔立ちのものが多い。 さまざまな生活習慣から、日本の古文化との関連も。 タイには、1850年頃、中国(清)のアヘン貿易に従事させられて移住してきたようである。 現在は、「ドイ・チャーン」、「ドイ・パモン」、「ドイ・パデーン」、「ドイ・プーランカ(パヤオ県)」などの1000mを超える山地に居住。 県内には、約3万人が住んでいる。
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![]() ヤオ [ เย้า ] ( ミィヤン族 ) もとは、中国南部に住んでいた民族で、タイに移住してきたのは、20世紀中半以降、特にベトナム戦争以後にラオス経由で入ってきたものようである。 「メオ族」とは、祖先を同じくする民族のようである。 メチャン郡、ドイ・パドング、パーン郡、チェンコン郡、チェンカム郡(パヤオ県)などの山地中腹に集落を作っている。 県内には、約1万5千人が住んでいる。
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![]() リソー [ ลีซอ ] ( リス族 ) 雲南省の山地に居住していたチベット系の民族で、100年ほど前から、ビルマ東北部を経由して流入してきたものらしい。1902年にファーン郡(チェンマイ県)、1921年にメースアイ郡北部の「ドイ・チャーン」で、彼らの集落が初見されている。 現在では、そのほか、メチャン郡・フエヒンフォンと県都郡内に彼らの集落がある。 県内には、約1万人が住んでいる。
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![]() ヤーン / カリアン [ กะเหรี่ยง ] ( カレン族 ) 一説によると、「カレン族」は、大昔、ゴビ砂漠、チベット高原方面から南下し、「サルウィン川」流域に移動してきた民族らしい。ということは、インドシナ半島北部の先住民族のひとつということに。 タイ領内へは、18世紀になってから流入したが、近年政争により難民として流入したものも多い。 県内では、メチャン郡、県都郡、メースワイ郡、ウィアンパパオ郡などに住んでいる。 県内のカレン族の総人口は約8千人である。
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![]() カリヤン・デーン [ กะเหรี่ยงแดง ] ( 赤カレン族 ) もとの居住地は、ミャンマー内、ムアン・ナイである。現在は、県都郡内、バン・ドゥー町ポンパバット村に居住。
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![]() カリヤン・カーオ / ヤン・カーオ [ กะเหรี่ยงขาว ] ( 白カレン族 ) もとの居住地は、ミャンマー領内。県都郡内のフエイ・コム村、メーヤオ村に居住。
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![]() カー・ホック [ ข่าหก ] ( カー族 ) もともとの居住地は、インドシナ半島北部のラオス領内の山地。 メコン川を渡って、チェンコン郡に移住してきた。 20世帯ほどの小集団のため、各種データがない。 「カー」というのは、農奴に対する一般的な呼称である。
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![]() クイ [ กุ่ย ] ( モン・クメール語族 ) インドシナ半島の先住民族のひとつで、クメール時代末期には、独立国家を持っていた。 カンボジア、ラオス、タイ東北地方(イサーン)南部に居住。 ベトナム戦争・カンボジア紛争時代に移住してきたものが多いようである。そのころ、チェンライ県南東部のウィエンケン郡に集落があったらしいが、現在はよそへ移住していったようである。
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![]() ラ・ワ / ワ / ロウ [ ว้า ] ( ラワ族 ) 北タイ一帯の先住民族。モン・クメール語族。 現在、チェンコン郡ブアサリーに居住しているが、チェンマイ県、ランプーン県、ランパーン県にも集落がある。 チェンライの国境に近いミャンマー領内で、ミャンマー政府軍としばしば戦闘しているのは、「 ワ・デーン 」という「 ラ・ワ族 」の一派。 写真の衣装も、その「ワ・デーン」のもののようである。
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![]() ユアン [ ญวน ] ( ベトナム・ユアン族 ) もとの居住地は、現在のベトナム北部で、インドシナ半島( 仏印 )に進駐したフランス軍とともに、ラオスのフエサイ( チェンコンの対岸の町 )に移住し、その後、タイ国内入ってきたもの。
100年以上前から薬の行商などで、タイに入ってきたベトナム人もあり、すでに完全にタイ化していて、その子孫が、薬局の経営や医師などになっているものもいるようである。 生活習慣などが似ていることから、中国人(コン・チーン)と誤解されている。 |
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![]() コン・チーン [ คนจีน ] ( 漢族 ) チェンライに在住する中国人は、潮州人、広東人、福建人、海南人、客家、台湾人などがある。20世紀初頭に移住してきた人や比較的最近になって移住してきた人などさまざまである。
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![]() チン・ホー [ จีนฮ่อ ] ( 回族 ) 「チン・ホー」は、雲南・広西方面に住んでいた中国人で、内戦時、「国民党」の兵卒としてタイ領内に入ってきたものがほとんどらしい。半世紀ほど前のことである。「アヘン取引」などで財をなしたものがほとんどである。 現在は、チェンライ、メチャン、メサイなどの街場に多く住み、商業に従事しているものも多く、街道筋の「電気製品」、「バイク屋」、「建材や」、「農機具や」などの大形店舗は、「チン・ホー」経営のものが多いようである。
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![]() ケーク [ แขก ] ( インド・アラブ系民族 ) 「ケーク」という呼び名は、一般的には、インド人またはアラブ系民族に対する呼称で、県内には、「マレー系」と「インド系」の2系統が、県都など街場に居住している。 ともに「ケーク」と呼んでいるが、異なる民族で、ひとまとめにするのには無理がある。 「マレー系」は「イスラム教徒」、インド系は「シーク教徒」が多い。 インド系は、衣料品店や不動産賃貸業が多い。
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