「テラワーダ仏教」に接して


 わが実家の宗旨は禅宗(曹洞宗)だが、「仏教」にかぎらず、個人的には「無宗教」で通してきたような気がする。
 それでも、「釈迦」に興味がなかったわけではなく、学生時代には、故中村元教授の「印哲」の単位も頂戴した。もっとも、受講したのは最初の2、3回だけだったが。
 中村先生は、見るからに風采の上がらない訥弁の先生だったが、印象だけは残っていた。卒業してからのことだが、ラジオで仏典の解説をしておられるのを聞いたことがあったが、文化勲章を授与されたり、世間での教授に対する評価が高いことを知って、意外な思いをしたことがある。
 宗教者としてのお人柄もあったのではないかと思ったりしている。眼鏡の向こう側に隠れている鋭さに、気が付かないままだったのかもしれない。

 タイに住むようになって、「テラワーダ仏教(小乗仏教)」に接することになり、あらためて中村教授の翻訳仏典を読んでみた。
曹洞宗の開祖・道元の「正法眼蔵」や「正法眼蔵随聞録」も読んでみた。「正法眼蔵」、こんな難解なものに出会ったのは、ずいぶん久しぶりである。というか、勉強嫌いの身にとっては、生涯で出会った最も難解な書のひとつだったように思われる。
 繰り返し読んでも、腹立たしいほどに理解できない。宗教書というものは、理解するものではなく、ただただ信じればいいもかもしれないが、頭の悪い者にも理解できるように書かなかった著者が悪いのだとさえ思ったこともあった。

 大学の新入生時代のクラス担任、森本和夫先生は、専門は「フランス文学」なのに、哲学者という肩書きもあったようである。「道元」に造詣が深かったらしいが、その著書にはいまだ目を通してたことはない。
 それでも、「道元」や中村先生の翻訳のお蔭で、「釈尊」や「仏教」についての親近感は、いくらかは、増したかもしれない。

 日本の「大乗仏教」に対して、タイなどの南伝の仏教は、「小乗仏教」と言われ、特別に修行した人しか救済されないということになっているらしい。乗り物としては、収容能力の小さい小型の乗り物ということのようである。
 それに対して、「大乗仏教」というのは、より大型の乗り物で、多くの人が救われるということらしい。これに乗れば、誰もが救済を受けることができるとさえ言われることもあるようである。

 「テラワーダ仏教」は、日本の仏教界では、「小乗」と言ってべっ視されているようだが、タイの仏教を見ている限り、こちらの方も結構大きな乗り物のように見える。

テーラワーダ仏教とは?
 「仏教」は、今からおよそ2500年前、釈迦が「バラモン教」などの先行信仰を下敷きにして説き始めたものだそうである。
釈迦の死後、さまざまな流派に分かれて広がっていき、中国・チベットや日本には、釈迦の死後数百年経って北伝の仏教が伝えられたのだそうだ。
一方、タイやミャンマーなどには、一時期「大乗」系の「密教」が伝えられた形跡もあるらしいが、やがて「スリランカ」から「テラワーダ仏教」が伝わって広まっていった。

 「テラワーダ」とは、パーリ語(古代インドの言語)で、“thera(長老の)”“vada(教え)”、を意味し、「長老派仏教」とか「上座部仏教」とも言われる所以である。
 北タイ、チェンライの「仏教」も、「ご利益信仰」、「儀礼宗教」の要素が多く、日本の仏教と似ていないともいえないが、釈迦の古い経典に依拠しているということもあるのか、わかり安いのでありがたい。
 信仰行為というのは「戒」を守ることと、「タンブン行為」に尽きるといってもいいかもしれない。

 修行者である僧侶には「227戒」、あるいは、さらに多くの戒が定められており、一般の信者にも、「殺すなかれ」など、「5戒」というのがある。
 これらの「戒」、それほど厳格に守られているとは思えない。
 「破戒僧」にならない範囲内で、「融通無碍」のようである。
また、「タンブン」とは、「徳行」ということだが、寺や僧侶に対する奉仕行為が「タンブン」であるばかりでなく、さまざまな「タンブン」行為が見られる。
民家の新築祝いや開店祝いなどで、近隣のものなどを接待し振舞うのも「タンブン」である。
なにかおめでたいことがあって、振る舞い酒をするのも「タンブン」で、「恵み」行為すべてが「タンブン」といえる。
 「タンブン」には、「ブン(徳)」の軽重があるらしく、僧侶に対する奉仕や寺の新築奉仕、子弟を出家させることなどは、「ブン」が大きいとされている。
 「ブン」は、銀行預金のように積み立てられて、徐々に大きくなっていくが、「戒」を犯したりするごとに、取り崩され残高が減ることになる。多額の「タンブン預金」を持っているものは「徳のある人(コン・ミー・ブン)」とよばれ、敬意を表されることになる。これぞまさしく、「徳」に対する今生の「報い」の最たるものである。もちろん、あの世での「見返り」は約束されているのだそうだ。
 うまくできたもので、「仏教」が途絶えないような仕組みが出来上がっている。
 「タンブン」のこのような思想は、根本精神はともかくとして、「釈迦」が考えついたものではないにちがいない。「宗教マシン」を必要とした、後世の俗人たちが、考案したものにちがいない。

「アリガトウ」といわない理由 お経について
 お経というのは、意味がわからないと、こんなに退屈で眠くなるものはないが、最近まで意味を理解しながら聞いたり、唱えたりしたことはほとんどなかった。
 タイの学校では、初等教育過程から、毎日のように「お経」を唱えさせているようである。
「門前の小僧」の発想からなのかもしれないが、それにしても、5戒のすべてを守らない人が多いのはどういうことだろうか。
 タイ人は、「敬虔な仏教徒である」などというのは、「眉つば」もので、熱心な「タンブン教」信者というのなら、わからないでもない。

 以下に、北タイの「お経」の決まり文句について紹介する。

@ 経のはじめに(釈尊に対する敬意の挨拶)
 経を唱えるにあたって、まず最初に三回唱えられる。
 ・ ナモータッサ パカワトー アラハトー サンマー サンプッタッサ
 ・ ナモータッサ パカワトー アラハトー サンマー サ ンプッタッサ
 ・ ナモータッサ パカワトー アラハトー サンマー サンプッタッサ
     (「阿羅漢」であり、「悟りの人」であり、「瑞祥に満ちた」釈尊 に、敬意を表します)

A 三宝に帰依
 仏像の前や僧侶に対したとき、ひざまずいて三度拝むのも、「仏(プット)」「法(タンマ)」「僧(サンカ)」への帰依を表すためである。
 偉大なる師、「釈尊」への感謝と、この世界の「 真理の法(タンマ)」への服従、さらに、先達である出家者集団(僧 団)に敬意を払うことから、「信仰」が始まるわけである。
 ・ プッタム・サラナム・カッチャーミ(仏陀に帰依します)
 ・ タッマム・サラナム・カッチャーミ(真理の法に帰依します)
 ・ サンカム・サラナム・カッチャーミ(僧団に帰依します)
 ・ トゥティヤム・ピ  プッタム・サラナム・カッチャーミ(ふたたび、仏陀に帰依します)
 ・ トゥティヤム・ピ タッマム・サラナム・カッチャーミ(ふたたび、真理の法に帰依します)
 ・ トゥティヤム・ピ  サンカム・サラナム・カッチャーミ(ふたたび、僧団に帰依します)
 ・ タティヤム・ピ  プッタム・サラナム・カッチャーミ(みたび、仏陀に帰依します)
 ・ タティヤム・ピ  タッマム・サラナム・カッチャーミ(みたび、真理の法に帰依します)
 ・ タティヤム・ピ  サンカム・サラナム・カッチャーミ(みたび、僧団に帰依します)

 B 五戒の誓い
 ・ バーナーティパーター ウェラマニ スィッカー パタム・サマーティヤーミ
                        (「生き物を殺さない」という戒めを守ります)
 ・ アティナーターナ ウェラマニ スィッカー パタム・サマーティヤーミ
                        (「盗まない」という戒めを守ります)
 ・ カーメース ミッチャーチャーラー ウェラマニ スィッカー パタム・サマーティヤーミ
                        (「淫らな行為をしない」という戒めを守ります)
 ・ ムサーヴァーダー ウェラマニ スィッカー パタム・サマーティヤーミ
                        (「嘘をつかない」という戒めを守ります)
 ・ スラメラヤ マッチャパマタッタナ ウェラマニ スィッカー パタム・サマーティヤーミ
                        (「酒や麻薬などを使用しない」という戒めを守ります)

 タイ語すら、ろくに理解できない身では、「パーリ語」の「お経」の中身についてなど、まったく「馬の耳に念仏」で、ちんぷんかんぷんであるのは今も変わ らない。
 祭事での坊さんの「お経」、眠気をこらえるのに苦労する。意味が理解できないものを「ありがたい」と思うわけにはいかないところがつらい。

   最後に、「マハ・プリサ・ウィータカ ( 偉大なる人の思想 ) 」 という、僧侶や信者の信仰精神の根底になっている有名な「お経」について、意味だけ列挙しておく。

 法(タンマ)というのは、
 ・ 「足るを知る人」のためのものであり、強欲の人のものではない。
 ・ 「孤独を喜ぶ人」のためのもので、衆会を楽しむ人のものではない。
 ・ 「精進をする人」のためのもので、怠け者のものではない。
 ・ 「よく気のつく人」のためのもので、愚者のものではない。
 ・ 「心を統御した人」のためのもので、乱心している人のものではない。
 ・ 「知恵のある賢い人」のためのものであり、無知蒙昧な人のものではない。
 ・ 「無為を楽しむ人」のためのものであり、有為妄想の人のものではない。

   「 テラワーダ仏教 」 というのは、これらの項目を見ただけで、「あんたなんか、およびでないよ」といわれそうだが、それでも、「 精進の目標 」とでも思えば、生活の指針くらいには役立つかもしれない。
 「怠け者のものではない」とはいうものの、基本的には、怠け者が偉そうぶっているのをよしとする宗教で、ものぐさな自分とは相性がいいような気がしないでもない。
 「知足」などという、日本の禅宗でも説かれるようで、京都の寺の中庭にそんな文句を掘り込んだ石があったことなど、懐かしく思い出したりしている。
 経済優先の強欲世相を憂慮された、敬虔な仏教信者、プミポン国王も、「 知足 」を説いておられる。
食は「一汁一菜」ということで、「マンチェスター・ユナイテッド」のオーナーなど、苦々しく御思いでおられるにちがいない。
ケ小平の「金持ちになれる人から、金持ちになればよい」という「強欲奨励主義」とは、対極の思想である。
 それはそれとして、「すばらしい先進国・日本」からも企業進出なみに新興勢力が入り込んできていて、タイの「タンブン教」も、必ずしも安泰とはいえず、近頃では、「国教化」を要求する過激なグループも出てきているようである。
ちなみに、「創価学会」、「立正佼成会」などは、北タイの辺境まで、分派ができている。恐ろしかな日本の強欲主義。「救ってアゲル」などというのは、いささか傲慢ではありませんか。

 上記した「お経」 などは、以下のページで、実際の坊さんの読経を聞くことができます。
    パーリ語日常読誦経典 』 (日本テーラワーダ仏教協会)
  お経の意味などの解説もあるので、興味のある方は、アクセスしてみてください。

                                   ( 2007.04.01 / 2007.07.15 改訂 )