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アカ族の老婆の葬儀・2011




 
 懇意にしている山の上の「アカ族」の家から、2011年3月に下のような葬儀の案内状が届いた。
 精霊信仰が伝統の「アカ族」から、このような案内状が届いたのははじめてのことで、今までにも何回か「アカ」の葬式に出かけて行ったが、いつも伝言による口頭の知らせだけだった。
 記念すべきものだと思い、後日、内容が読解できるように、A4の原寸をやや拡大したサイズで残しておくことにした。

iko.jpg 「メー・ヤームー・イェムー(แม่ยาเมอ แยมีอ)」、享年96才、子供のころから我が家に出入りしてきた「ネー」の祖母にあたる老婆の葬儀である。
 始めてお会いしてから、かれこれ四半世紀。当時からすでにけっこうなおばあさんだったが、「アカ族」の女性にしては大柄で、かくしゃくとしていて民族の威厳にあふれた素晴らしい女性だった。


☆           ☆            ☆

          ・  2554(2011)年3月12〜14日  19:30〜 仏式のお経
          ・  2554(2011)年3月15日     10:00   仏式にのっとった葬儀
          ・                        11:00   僧侶に供飯

 実は、この案内状、ここまで目を通したところで、アレッ?と思った。いつ、「仏教徒」になったのかと。
 村あげて仏教信者になって、まだ2年余りにしかならないということをあとになって知った。
 3〜4年前だったろうか、「ネー」の兄が亡くなったときの葬式は、「精霊信仰」の伝統にのっとった葬儀だった。
 時代とはいえ、様々な理由から、タイの地で「シアワセ」に生きて行くために、村をあげて「仏教」を選んだんだろうなと、民族の悲哀のようなものを感じてしまった。

 義父の時代から濃いお付き合いをしてきた間柄で、故人の孫に当たる「ネー」は、かみさんの実弟と同世代ということもあって、なかば実の弟のようなつもりをしてきた間柄で、我が家をあげて出かけて行った。

 葬儀は、「にわか仏教」ということもあってか、伝統の「精霊信仰」スタイルと「仏式」の折衷のような葬儀だった。

(注)
 「案内状」には、15日13:00〜 遺体の「火葬場への移動」となっているが、「出棺」という意味に解するべきかもしれない。実際には「火葬」ではなく、従来と同じように「土葬」だった。10年あまり前まで、平地のタイ族の場合でも「野焼き」の簡易火葬場だったわけで、「火葬場」を設置するのはそれほど大変なことでもないため、「火葬場」の準備ができていないことが「土葬」にする理由ではなく、村の中に、「火葬」のコンセンサスができていないのが理由のような気がしていた。ただ、「案内状」そのものは、「印刷屋」にある見本を参考に、「印刷屋」と相談しながら作ったため、「火葬場への移動」などということになったようである。我が家の連中は、この「案内状」を見て、遺体は「火葬」されることになったと勘違いしたものがほとんどだった。
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 上の「案内状」の「(葬儀)主催者一覧表(รายนามเจ้าภาพ)」によると、最初の2行は故人の実子(บุตร)で、いまも男女ひとりづつが、ご健在であることがわかる。
 以下25人ほど「หลาน」が並んでいるが、「お孫さん」である。
 曾孫、玄孫まで入れると、100人を越す係累がいるのではないかと思われる。

 3行目、「孫」の筆頭に記載されているのが、通称「ネー」である。本名は、「アーネー・イェムー(อาเน แยมีอ)」、当年41才(?)、立派に成人していまでは村長の補佐役を勤めている。
 驚いたことに、実質的は主催者のリーダーである彼が、「にわか出家」をして、坊主頭にサフラン色の袈裟姿。正直そんなのあり?と思ってしまった。
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 「居間」に安置されている柩。
 新式の住宅に建替えられてまもない「ネー」の家。

 かつての伝統的な住宅しか念頭にないものにとって、部屋の壁にサイジングが張られていたり、アルミサッシの窓など、これだけで腰を抜かしてしまいそうである。
 葬儀飾りなども、平地のタイ人のものと変わりがない。
 ただ、柩だけは、伝統の丸木作り。この柩を一目見たとき、ビックリもしたが、いいものを見せてもらったと、ホットした気分になった。「アカ」の民族伝統をすべて捨て去ったわけではなかったのである。
 右側に、少しだけ写っている仏壇は、個人所有のものではなく、平地のタイ人と同じように、部落の共有財産である。
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「ヤームー・イェムー」かあさん

2458(1915)年1月1日生まれ
2554(2011)年3月10日死亡


 20世紀初頭、タイの平地でさえ、「戸籍法」など徹底していなかったわけで、故人の生年月日に関しては、必ずしも定かではない。

 「戸籍登録」をする際、生年月日がたしかでない場合には、生年については、本人のや関係者の年令に関する証言から、おおむね正しく登録されたとしても、生まれた月日が曖昧な場合には、すべて1月1日にしておくのいうのが普通だったようである。現在80才近くになっている我が家の義父の場合も、生年月日の年月は1月1日になっている。

 「パイプ」姿が懐かしい。
 起きている間は、食事どき以外、ほとんど竹製の「パイプ」をくわえたままだったが、「タバコ」が烟っているのを見たことがないが、一種のアクセサリーのつもりだったのかもしれないと思っている。
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 生花飾りや枕もとの線香などは、平地のタイ族のものと変わりがないが、「アカ」のイメージからすると随分豪勢なような気がした。

 丸木を穿って作った柩の上下の隙間には、味噌のようなものがつめられているが、ハエなどの虫よけの役目とともに、棺の内外の空気を遮断し、防臭効果も果たしているようだった。

 遺骸の防腐のために、平地のタイ族たちがするように、保冷装置やホルマリン注射などの防腐剤を使用している様子はなかった。
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 「ネー」の家の外観である。
 「アカ族」の伝統的な集落は、海抜1000m前後の比較的風あたりの強くなさそうな尾根を選んで、その尾根の両側に尾根に沿って家並みが並んでいるのが普通である。
 この尾根の高みから順次屋敷が作られているようで、高いところほど、先住だったり、家格が高かったりするようである。
 この地の「アカ族」がここに集落を移して以来の、いわば「旧家」である「ネー」の一家の宅地は、最上段の家から2軒目にある。
 2年ほど前までは、縁の下が少し高い高床式に近い茅葺きの家だった。今ではご覧の通り、「アカ」にしてはモダンな建物で、屋根はスレート葺きである。
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  100戸近くはあるだろうか、集落内のあちこち見て歩いても、かつての「アカ」の面影を残しているこのような茅葺きの家屋は皆無に近い。

 まわりはみんな、「ネー」の家のような貯水タンクやテレビアンテナなども完備した「文化住宅」ばかり。
 ただ、それにしては、モノクロの地味な色彩の家ばかりだなと思ったら、「環境保全」とか言うのが立前で、お役所が赤だ青だ黄色だという塗装を規制しているのだそうだ。
 タイにとっては、重要な「観光資源」である山岳民族が、あまりにも極彩色では、困るのが理由なのではないかと言う気がした。
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  もうじき僧侶が到着して、仏式の儀式が始まるというのに、玄関前で、「生贄」の屠殺がはじまった。
 なるほど、仏式に改宗したからといって、これをやらなければ、故人がうかばれないのではないかという不安を拭い去ることはできなかったようである。

 玄関前で、おおっぴらにとは言うものの、さすがに「殺すなかれ」の仏教の戒の手前、大の男たち総出で「生贄」の儀式というわけには行かないようで、なんとなく肩身の狭い思いをしながらのように見受けられた。
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  「仏教」の教義からすると、許されるわけはないと思うのだが、連日のように、「スイギュウ」や「ブタ」が、振る舞い料理のために屠られる。
 平地のタイ族とて、まったく同じことであるが、平地では、柩が安置されている家の玄関先で、このように、これ見よがしに調理されているということはなく、裏庭や隣家の台所などでひそやかに調理されて「料理」になったものが振舞われるわけである。
 ちなみに参列者に振舞われた料理は、「豚の脂身炒め」、「スイギュウ」の煮物、豚とスイギュウの「ラープ」、「ラープ」の1品は、生肉のダメな人用に、加熱済みだった。
 以上、野菜がまったくない4品に、「カオドイ(陸稲)」のご飯が、ビニール袋に小分けして配られ、手で食べるのではなく、箸を使っていただくわけである。
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 これが、故人の孫にあたる、この家の当主「ネー(เน)」である。「アカ族」としての本名は「アーネー(อาเน)」だが、本来文字のない「アカ族」にしてみれば、タイ文字表記は、単なる「当て字」にしかすぎない。

 日本風に言えば、この葬儀の「施主」にあたる「ネー」が、このような姿で「にわか出家」するとは予想外だった。故人の孫や曾孫など、係累の子供たちが「にわか出家」することは、タイ族でもふつうのことだが、当主じきじきというのは、はじめてのことである。
 「にわか仏教」で、土地の「仏教」の葬儀のシキタリに通じていないからかもしれない。

 はじめてあったとき、まだ少年だった彼も、もう「不惑」。早いものである。

 最後に、記念のために彼の家族の写真も添付しておいた。
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 「ワット」と呼んではいるものの、この村にはまだ「お寺」はない。
 小さな仏像が安置されている、壁もない吹きさらしに近い「礼拝所」があるだけである。
 その建物の脇には、写真のような「菩薩堂(พุทธสถาน)」という看板が立てられているだけである。
 「仏教」がこの山の上にも根付き始めたばかりなわけで、現在は、ずっと下の大通りから山道に入る三叉路に近くにある「パサーン寺」の出張所のようなことになっている。当然、住職など常住しているものはいない。
 このたびの葬儀も、30キロ近く離れた麓から、「パサーン寺」から出張してきた住職などが、葬儀を執り行った。
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 これが、「菩薩堂」の中の様子である。
 正式の「伽藍」であれば「ウボソット(อุโบสถ)」に相当するものであろうと思われる。
 信者が2〜30人も入れば満員になりそうな小さな、かわいい「礼拝堂」である。
 月4回ある「仏日」には、麓のお寺か坊さんが出張してきて、ここで「仏事」が執り行われるのだろうか。

 いつの日か、「寺院」に昇格し、住職が常住するお寺になるのだろうか。
 それとも、何かと生活の不便な山の上のこと、村をあげて、平地へ移住してしまうなんてこともないとはいえない。
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 「菩薩堂」の脇を森の中に入って行く道は、「ネー」の兄も埋葬されている、「墓地」に続いている。
 ここまで、集落の中心からは、500m以離れている。

 以前の埋葬地は、この先100m以上入った尾根の向こう側にあるらしいのだが、前回のときには埋葬に立ち会わなかったので詳しいことはわからない。
 だが、この付近、なんとなく「死霊」が彷徨しているようなゾクゾクっとさせられる場所である。
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 「アカ族」は、「ラフ族」のような「狩猟採集民族」ではない。
 もちろん「狩猟採集」をしないわけではないが、山の急斜面を開墾し「焼畑農業」で生計を立ててきた農業民族である。
 何十年間か、1ヶ所で生活し、土地が疲弊してくると、村をあげて集団で、別の場所へ移住する、ある意味では、「半ボヘミアン」でもあったようである。
 とは言うものの、彼らの農地は、集落からは離れているところにあるのが普通で、集落からは垣間見ることさえ出来ない。集落に近接した場所での「焼畑」などが禁止されたことにもよるのだろうが、防火対策などを考慮した民族の伝統的な「掟」によるもののようである。
 そんなことから、「アカ族」の集落のまわりには、長い間人の手が入っていない、「原始林」が鬱蒼としているのが普通である。
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 遠めに見える広大な「原始林」は、「アカ族」の集落が近くにあることが想像できる。
 この「処女林」に近い森の中は、「タケノコ」、「きのこ」、「山菜」などの「山の幸」の宝庫でもある。
 かつては、こんな森の中の「けものみち」の先には、集落への入り口に当たる「門」があったものだが、今では、どこを探しても見つからなくなってしまった。
 「仏教」が入るのと期をいつにして「精霊信仰」や「「アカ族」の民族の伝統のほとんどを放棄することにしたのだろうと思われる。
 毎年更新追加される集落の入り口の「門」は、日本の「鳥居」などとも起源を同じくするものらしいのだが、今はもう見られなくなってしまった。
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 「葬儀」がはじまる前に、村の中を散歩してみた。
 この村を訪れるたびに、校門の外からは、学校の中を見ていたのだが、従来からの教室のある平屋の小さな校舎以外に、場違いなくらい立派な真新しい建物が目についた。
 2階の半分ほどだろうか、「図書室」という看板がかかっていた。どれくらいの蔵書があるのか興味があったが2階には上がらなかった。
 1階の半分ほどは、吹きさらしだが「講堂」のような使われ方をしているらしく、教師と思われる2〜3人の女性が、なにやら壁の掲示板に貼る展示物作りをしていた。
 つい先だって、2月14日に「シリントーン王女(プラテープさん)」の行幸があったという文字が、1階の壁に掲げられていた。おそらく、「落成式」においでになり、建物の「オープン」儀式をされたものと思われる。
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 上の建物の傍、狭い校庭の片隅に、「遊行仏」の像が立っていた。平地の学校では見かけないものだが、なんとなく、昔の日本の小学校なら、どこにでもあった「二宮金次郎像」を思い出してしまった。
 この「仏像」も真新しいもので、村をあげての「仏教」への改宗の一貫なのかもしれないと思った。
 前記した「菩薩堂」は、バンコクにある会社名で寄贈されたものだったが、この仏像もやはり「篤志家」の寄贈によるものにちがいない。

 これから村をあげて「仏教」に改宗することにしたので、寄進お願いしますと村の有志がお願いに行ったものか、お上が、「改宗」を強要し、寄進者を見つけてきたものか。
 村の中にも「仏教」への改宗に賛同したものもいるにはちがいないが、「野蛮な」精霊信仰の放棄を強要するような、権力者の力が働いていたような気がしてならない。
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 我々が参列した15日の「儀式」は、案内状によると、午前10時に始まる予定になっていた。
 ところが、待てど暮らせど、肝心の坊さんがやってこない。催促の電話を入れたらしいが、何だかんだと遅れるからというだけで、結局、坊さんたちへの「供食」は省略になり一般参列者の食事が始まった。
 食事タイムも過ぎ、一段落した午後1時過ぎになって、ようやく、坊さんたちが到着、儀式がはじまった。
 音響システムが使われていないので、少し離れたところに設営されているテントに坐っていたわが村からの参列者などにとっては、坊さんたちの読経が始まったのかどうか、まったくわからなかった。
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 いくらなんでも、そろそろ始まっているにちがいないと、「ネー」の家に行くと、肝心な告別式のお経は終っていて、坊さんたちへの「お供物(サンカターン)」の供養が始まったところだった。
 もしかすると、時間が足りないということで、お経の一部をはしょられたかも知れない。

 右奥の4人の坊さんが、山の下からやって来た坊さんたちで、その前の、頭の青い「坊さん」ふたりと子供の坊さんは、今回の葬儀のためだけの「にわか坊主」
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 左方の棺の頭の上にぶら下がっている篭などは、故人が生前使っていたもの。
 白い袋は、野辺送りの際にもって行く「頭陀袋」で、平地の葬式で使われるものと同じである。口は縫い付けて開けられないようになっている。

 遺影の向こう側のピンクの縁取りの花輪は、学校の教師たちが持ってきたものだが、葬儀での教師たちの役割は、平地のケースと同じように思われた。
 村内で、葬式があると、故人が生徒のPTAとかなんとか関係なしに、学校名で花輪を持ってくるようである。
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 「アカ」の正装をした老婆ふたり、部屋の中にまだ充分ゆとりがあると思われたのだが、部屋の中には入らないで、縁先に坐っていた。

 故人とは親しくお付き合いしていた間柄のように見えたが、「仏式」の葬儀には、なんとなく抵抗があって、部屋の中に入れなかったのかもしれない。
 そういう意味では、亡くなったおばあさんとて、「仏式」での葬式を快く思ってはいなかったのではないだろうか。
 「老いては、子に従え」と、ことわざにもあるように、あの世への入り口で、じっと我慢しているのかもしれないが。
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 いよいよ「出棺」である。
 屈強な男手6人ほどに抱えられて庭先に運び出された「棺」は、椅子の台座の上に一時的に据えられた。
 「聖糸」を引き綱にして、これから墓場まで引かれていくのだが、親族たちが、名残惜しそうに柩に手を添えている。
 真ん中のおばあさんは、顔つきからして故人の娘さんのようである。
 男性3人は、「ネー」の従兄弟たちかもしれない。顔つきはみんな似ている。
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 おばあさんが入った棺が、長年住みなれた家を後にする直前である。
 大木から削りだした丸木の棺を一目見たとき、「アカの誇り」ここにありという感想を持った。
 おばあさんの訃報を聞きつけてまもなく、森に入って適当な大木を見つけ切り倒して作ったものにちがいない。おそらく、何人がかりかで、丸々1日くらいかけてこしらえたものではないだろうか。
 土葬にして、土深くに埋めてしまえば、このような装飾的な形は必要ないと思えるのだが、丸木のソリ具合、それぞれの突起状の形や真ん中のお臍の「栓」のようなものなど、すべてに意味が込められているにちがいない。
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 「にわか坊主」の「ネー」も故人の曾孫も、感無量。
 うしろの喪服の女性は、涙がこらえ切れなくて顔をそむけてしまった。
 こんなとき、「愁嘆場」を見せてはいけないのは。「アカ族」も平地のタイ人も同じことである。
 もう、2度と、亡くなったおばあさんは、この家に戻ってくることはないのである。
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 「柩」は、形式的に、大勢の参列者に「聖糸」で引かれ、車にのせられた。故人が生前に使っていた身の回りの品々も一緒である。
 埋葬場所の墓場までは、登り降りの急な山道を2kmほど行った森の中にあるため、歩いていくのは大変で、ピックアップでの葬送行進である。
 棺をのせた先頭の車は、狭いながらも舗装されている道路から、さらに林の中の道なき道に入り込み、埋葬場所から30mあまりはなれたところに駐車。
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 帰りがけにみつけたのだが、この道なき道には、茶の木の苗があちこちに植えてあった。

 車を止めた場所からは、青竹の竿を使って、棺はかつぎ上げられた。
 尾根近くから、東に向って下りかけたあたりに、墓穴が掘られていた。近所の人達が、この日の朝に来て用意しておいたものにちがいない。
 5mほど離れたところに、去年あたりに埋められた先人の墓があったが、「ネー」のおばあさんは、この場所では、ふたり目のようだった。
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 こんな形をした「棺桶」は、見たことも聞いたこともないはじめてである。
 かつて、日本にも土葬の時代はあったわけだが、日本にも、これと似た「棺桶」が使われた時代があったのだろうか。詳しい考古学者に聞いてみたい気がする。
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 棺の上に、「聖糸」の玉が置かれているが、これは、昔からの伝統ではなく、「仏教」に改宗してからのものにちがいない。

 これから、蔦で結束されている棺のふたが開けられ、「最後のご対面」ということになるのだが、近親者数人を除くと、棺に近づいて、最後の対面をする者もなく、愁嘆場ということにもならなかった。
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 蓋が開けられた棺を、じっと見下ろす「ネー」。
 複雑な胸のうち察せられる光景である。
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 遺体の全身は、華やかな「花色木綿」で覆われていた。
 顔のあたりを覆っている布が、1枚、また1枚とはがされて、3枚目か4枚目の下に、半ば「白蝋化」した、おばあさんの変わり果てた顔があった。
 ”もう1週間もたっているからな”という声が聞こえてきた。

 「仏教」式に、顔の真上で「椰子の実」が割られ、ココナッツ・ミルクが死体の顔を潤したあと、顔は、はがした布でふたたびで覆われ、棺の蓋も閉じられた。
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 ロープで墓穴に吊りおろされた棺に向って、大勢の人たちが、われもわれもと、一握りづつの赤土を投げ入れていた。そうすることが、故人の供養になるかのようだった。
 墓穴のまわりで、坊さんたちの最後の読経だあるのかと思ったが、まわりには、「にわか坊主」以外の袈裟姿はなく、坊さんは、墓場までは同道してこなかったようである。
 100日供養など、この墓場に、遺族がふたたびやってくることがあるのだろうか。
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 「葬儀」を前に、近所を散歩していて見かけた風景である。
 今では、山の上でも「耕運機」を使うらしく、「米倉」の傍にカバーをかけておいてあった。
 「米倉」の軒先に立てかけておいてある茅葺き屋根用の萱や母屋の脇に積んである「マキ」などは、如何にも「山の民」の住まいといった感じだが、スレート葺きの屋根が普及したら、新旧取り混ぜた今どきの「アカ族」の暮しぶりが忍ばれる。








「ネー」の妻子

 「ネー」の家族とは、滅多に会うこともないので、記念写真として、現在の奥さんとお子さんの写真をのせておくことにした。
 現在の奥さんは、再婚相手で、「ネー」には、先妻との間にも男女ひとりずつの子供があるが、すでに成人していて、今回の葬儀でもかいがいしく働いていた。
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「ネー」の奥さん。
 再婚相手で、「ネー」との間に、ふたりの女の子がある。(以下の、次女と三女)
 現在、タイ南部の「エビ養殖場」に出稼ぎしていて、夫や子供たちとは別居中)

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「ネー」の次女

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「ネー」の三女



【追記】

 我々家族の恩人でもあり、学生時代からの「ポン友」でもある金子万平氏と、この「サマーキーカーオ村」を訪れてから、もう20年近くになる。
 今の「サマーキーカーオ村」に、当時の面影はほとんどなくなってしまったが、彼の著作 『ムラのきた道 (信毎書籍出版センター、1993)』 には、当時のこの村の様子が様々なエピソードとともに残されている。
 すでに絶版になっている書かもしれないが、国会図書館などでは、目にすることができるのではないかと思われる。
 蛇足だが、この書の中の「仮名・S」というのは、小生のことである。