田舎の葬式


  冠婚葬祭の風習は、場所や時代によっても変わるものでしょうが、このあたりの葬式を見ていると、昔の日本の田舎の葬式を、想い出させるものがあり、紹介することにしました。ただ、北タイで一般的なのかどうか、定かではありませんが、似たようなものかなと思ったりしています。

  とにかく、このあたりは葬式の多いところです。月の半分くらい葬式なんてこともあります。葬儀が数日にわたって執り行われるからかもしれません。

  数年前までは、エイズと交通事故が死亡原因の半分くらいをしめていたのですが最近はこれといってきわ立った原因もなくなったようです。

  このあたりの葬式は、4日間にわたって、執り行われるのが一般的です。サン・クーン・シー・ワン(3晩4日)といいます。事情によっては、5日、 8日になることもありますし、またまれですが、一晩だけということもあります。高僧や皇族の場合、100日とか1年が普通らしいです。お通夜が1年も続くことになります。



★2003年 8月2日 「ミー爺(ウイ・ミー)」が、亡くなりました。

  享年72歳。若いころ罹った肺結核が、完全には治癒していなかったようでした。酒がとても好きで、アルコール依存症でした。我が家で、酒造りをしていたころは毎日のように買いに来て、朝から飲んでました。酒でもっていたみたいなものだという人もいるくらいです。

  「ミー爺」は、我が家で酒を造らなくなったころから元気がなくなり、亡くなる1ヶ月ほど前に、チェンライの病院に入院し調べてもらったところ、肺や肝臓など、あちこち悪く、医者も手の施しようがなかったようです。じきに退院して、自宅療養していまいたが、いよいよ危ないということで再入院したものの、とうとう、亡くなってしまいました。

  「ミー爺」の生まれたところは、チェンマイ県のとなりのランパン県です。政府の奨励で、兄弟や仲間たちと一緒に、パヤオ県(当時はチェンライ県の一部)に入植したときは、まだ十代でした。パヤオには、十分な土地を手に入れることが出来ず、奥さんの「ター婆」とその連れ子の「ケオおば」の3人で、この部落に移住して来たそうです。当時、一緒に移住してきた仲間たちも、近隣の村に住んでいるようです。もう、半世紀も前のことです。

  この村の住人のほとんどが、ランパン県、ランプーン県から移住してきた人たちの子や孫です。ずっと以前に亡くなった義母もランプーン県の人でした。
  葬式ともなると、遠方から近親者も大勢やってきます。今のように電話が使えるようになる前は、「告げ人」が遠方まで出かけていって、「葬式」を知らせたそうです。

  「ミー爺」夫婦は、この村に移り住んでから、長男の「マン兄(45)」はじめ5人の子供に恵まれました。末っ子の「ブッ(ト)兄」が、両親と同居していますが、ほかの子供たちも近くに住んで農業に従事しています。

  「ケオおば」の夫の「シーワンおじ」が、小生の妻の伯父で、「ブッ(ト)兄」の嫁さんが、姪の「ノイ」の義妹というわけで、血のつながりはありませんが、親戚筋にあたります。


  さて、「ミー爺」の話に戻りますが、病院の霊安室で、「湯潅(ゆかん)」を済ませ、ホルマリン注射をたくさん打たれて棺桶に入れられ、明け方近く、自宅 に帰ってきました。

  葬式には、「喪主」と「施主(ペン・チャォ・パープ)」というのがあります。
毎日10人くらいが施主になりますが、村長だけは、毎日施主に名を連ねます。施主は、遺族を除いた親戚の人とか故人にお世話になった人がつとめます。
毎日、式の前に、司会者がその日の施主を紹介します。


★ 葬式の1日目


  病院の親族から連絡があり、深夜にもかかわらず、近所の人たちが集まってお葬式の準備を始めました。朝6時前に、村の広報の拡声器から「ミー爺さん」の訃報がながされ、協力要請がありました。やがて、50人ほどの人が集まり、準備が始まりました。

  お葬式は、「ミー爺」の自宅で行われました。日本のように葬儀場というのはありません。庭が狭い場合は、隣の家の庭や道路も使われることがあります。

  庭に、30人用の大きなテントが、いくつも張られました。テントは、雨と陽差し除けです。強い陽射しでテントの下はとても暑くなりますが、テント毎にファンが取り付けられていて、いくらか、しのぎやすくなっています。テントには、組み立て式の椅子とテーブルが、並べられます。テント、テーブル、椅子等の備品は、すべて村の倉庫に保管してあります。式場の設営は、昼前に、おおかた終わりました。

  棺桶を置く台が小さすぎて、少しばかりですが板を、つぎ足して拡張しました。台をこしらえたころと比べて、タイの人も体格が良くなり、棺桶の標準サイズも10センチほど長くなったようです。

ひつぎ
  黒白の幕の前に棺が置かれ、金色のカバーがかけられ、花輪などが飾りつけられました。棺の前に小さな遺影の写真が飾られました。

  コンピュータ付きの、大きな拡声装置が据え付けられ、もの悲しいBGMが流されます。ランナー・タイの「ソー」という音楽が近隣の村々まで、流れていきます。葬式の期間通して、深夜から明け方までを除いて、途絶えることはありません。

  婦人会の人は、大鍋や食器類をなど什器の準備をしたり食材を調達に行くなど、「振る舞い料理」の準備で大忙しです。 葬式の設営をした人たちにも、食事が振舞れます。

  夕方、6時ころから、通夜の参列者が集まり始め、料理や菓子が振舞われます。初日は200人ほどであまり多くありません。料理は、大なべで煮込んだ「煮込み」料理や「ラープ・チン」(生肉のタタキ)があります。「ラープ・チン」は、女性や子供は、火を通してから食べます。「精進料理」ではなく、肉類の料理も出されます。

  夜8時すぎ、坊さんと「アチャン」(”先生”という意味ですが、葬儀をつかさどる祈祷師)を迎えに行き、8時半ころから、1日目の通夜の儀式が始まりました。

  村の坊さん、近隣の村の坊さん、あわせて4人の坊さんでした。唱和
大きな葬儀になると、10人もの坊さんにお願いすることもあるようです。寺は、各部落にひとつは、必ずあります。寺がないと、部落は成り立ちません。

  司会者の通夜の辞のあと、「アチャン」の読経が始まり、参列者が唱和します。仏事では「アチャン」が先導役をつとめ、式の主役です。
  「ナモタサ・サカバト・ハラハト・サンマ・サンポタサ・・」、日本の「ナムアミダブツ」のようなもので、このあと、仏法僧に帰依に奉る・・・と続きます。小中学校の生徒も、毎日、唱えさせられるお経です。

  そのあと、「アチャン」が「ランナー文字」で書かれた「弔辞のような御経(?)」を読み上げ、お坊さんは、折りたたみ式の経本を読みます。御経には、「バーリ語」と「北タイ語」がありますが、内容はほとんど聞き取れませんでした。

  読経の間、坊さんたちは、柄の長い「うちわ」のようなもので、顔を隠しています。
うちわ
「うちわ」には、「生」「老」「病」「死」などと書かれています。

  そもそも、「小乗仏教」の教義からすると、坊さんが死者の供養をするなんてことはないのだと思ってましたが、「大乗仏教」的な要素も取り入れているのか、供養の読経や火葬場では、死者に 引導を渡す御経なども読むようです。

  坊さんの、読経が、一段落すると、坊さんへの「お布施(タンブン)」が始まります。10人ほどの「施主」が。次々と黄色のポリバケツの「タンブン・セット」とサフラン色の僧衣を、坊さんに差し上げます。
  「タンブン・セット」の中には、線香、ローソクなどのほか、シャンプー、洗剤などの日用品も入っています。

  タンブンのあと、坊さんは、お経を上げて、退席します。世話人たちが、それぞれのお寺へ送りとどけます。

  このあと、お通夜の客は、当番の人たちを残して、三々五々、帰宅しますが、 「猫が、棺にのると、成仏できない」というのは、日本と同じで面白いなと思いました。 ビデオ・テープの映画を見たり、カード賭博やビンゴ賭博で、夜明かしする人たちも、けっこういるようです。


★ 葬式の2日目
お館
  2日目に、「お館(やかた)」と「仮小屋」を作ります。

  「お館」は「パサート」といって、棺をおさめ、火葬場までお連れするものです。このあたりでは、お墓は作りませんが、お墓のことも、パサートと言います。
 薄い合板と紙と発泡スチロールで出来ていますが、見た目にはとても豪華です。基本となる色は、白のほか、ピンク、みどり、黄色、だいだい色など、死者の性別、年齢などによって選ばれます。今では完成品を買ってきますが、以前は、手作りしたようです。最近では、数千バーツもするのにいずれ燃やしてしまうのだから、もったいないと、棺を花で飾るだけのところも出てきたようです。日本の田舎でも、「お館」のようなものに棺を入れて野辺送りをした記憶がありますが、いまでは、霊柩車に変わってしまったようです。時代の流れというものでしょうか。

  北タイでは、死者の霊魂はとても怖いものと忌み嫌われ、恐れられています。死者の霊魂は、棺が屋外に出ると、もう、家の中に戻ることは出来ません。

かりごや
1日目のお通夜の席で坊さんからきつく言い聞かされているのです。 もう、住むところがないので、死者のために「仮小屋」を作ります。若者たちが山へ行き、竹などの材料を手に入れてきて、突貫工事で作ります。きれいに飾りつけ、小屋の中やまわりに、死者が生前使用していたさまざまの品が取り揃えら、不便しないようにします。小屋の前の壁には、「・・町大字・・0番地」「・・・の家」なんて表札まで掲げられます。
小屋ができあがるころ棺は、「お館」に移されます。

  通夜の行事は、2日目も、1日目とほとんど同じですが、お経はいくらか異なるようです。詳しいことはわかりません。参列者も、同じようにたくさん集まります。

  通夜の夜には、「互助会」からの援助で、毎夜、打ち上げ花火が揚げられます。
夜、花火の音が聞こえたら、どこかに葬式があるなと思って間違いありません。
また、「ワオ」または、「コーム・ロイ」と呼ばれる「孔明灯」(熱気球の一種)があげられることもあります。

★ 葬式の3日目(最後の通夜)

  翌日の出棺、野辺送り、火葬式の準備がされます。葬式も、長くなってくると、
いささか、中だるみといった感じで、近所の人たちも、日中は、農作業に出たりする人も出てきます。 喪服

  このあたりでも、喪服で参列する人が多くなりましたが、近所の人たちは、平服の人もかなりいます。つい数年前までは、男性は、「スア・ダム(黒服)」という藍染の服装(タイの農民の正装)で、年配の女性は、白のレースのブラウスでした。
  最近は、親族の女性と年寄りは白ずくめ、そのほかの参列者は、黒かグレーの服装が多くなりました。ちなみに、王室の行事をつかさどる「バラモン僧」は、白装束です。日本の神主さんと関係がありそうです。

  3日目の通夜の行事は、今までの中でも、最も盛大に執り行われ、遠方からもの参列者も多くなります。坊さんのお経も少し長くなります。

  死者の霊が、仮小屋で過ごすのも、今夜が最後になります。


★ 葬式の4日目(告別式、火葬)
にわか坊主

  告別式は、朝早くから執り行われます。
  近親者の子弟、数人が、急ごしらえの、坊さんになります。早朝、寺へ行き、出家の儀式を済ませてきます。どういういわれがあるのかは、わかりませんが、死者への供養であることは間違いありません。
子供たちが、剃髪し眉毛まで剃り落とした姿は、ちょっと滑稽でもあり、気の毒な気もします。
 供養の儀式が済むまで、あと3日間は、還俗(?)できません。葬式の席では、近親者が出家して坊さんになっている場合や、「にわか小坊主」たちは、壇上に座れないばかりか、「タンブン」もされません。

 告別式の参列者は、通夜の倍くらい集まります。「ミー爺」の告別式も 500人以上参列しました。どちらかというと、多い方ですが、まれには、 1000人くらいのこともあります。通りや近所の家の庭が駐車場になります。
 記念撮影1

 参列者は、到着しだい「お館(パサート)」の遺影ので焼香します。
タイの線香は中国式で、竹ヒゴに線香の材料をつけたもので、煙はともかく、香りは日本のものにかないません。
 3本ずつ使います。まれに1本ということもありますが、2本ということはありません。偶数は、縁起が良くないとのことで、忌避されます。

  告別の儀式は、10時頃に始まり、11時過ぎまで続きます。
生命保険会社のお姉さんが、PRをかねて、弔辞を述べたりします。弔辞が終わると、「アチャン」先導のお経と坊さんのお経に続いて、坊さんへの「タンブン」。
 告別式の儀式が終ると、坊さんたちは、近くの寺へいったん引揚げ、食事します。タイの坊さんは、一日一食です。
 その間に、出棺の準備や記念撮影などが行われ、参列者も食事を取ります。

 野辺送り 野辺送り

  午後1時頃、一段と悲しげなBGMを合図に、野辺送りの出発です。
「お館(パサート)」は、拡声装置のついたワンボックス・カーに牽引されワンボックス・カーには、綱引きの綱のような長いロープが2本結ばれていて、野辺送りをする人たちが、この綱をゆっくりと引いていきます。
 竹ざおの先に、ひと形を切り紙で作った旗を掲げた人が先導し、その後に遺影が続きます。
  大通りなど、車の多いところでは、パトカーが先導することもありますが、今回は、田舎道を1kmほど行くだけで、その必要はありません。
それでも、一応、制服制帽の「ボランティア隊」の人たちが、交通整理をします。また、「パサート」の塔は高さが7〜8mもあり、道中で時々ひもを引っ張って、塔の先端を倒し、木の枝や電線を回避します。火葬場


  野辺送りの行列が大通りを行くときは、何よりも優先され、ほかの車などは、全部止められて行列が通り過ぎるのを待ちます。

  火葬式

 やがて、火葬場に到着です。
数年前までは、野焼きでしたが、「村おこし基金」で、立派な火葬場になりました。火葬の儀式が現代風になってしまい、情緒がなくなったのは、ちょっとさびしい気がします。
 火葬場の広場に、参列者がそろったころ、坊さんたちも到着します。
火葬式では、坊さんの数も、10人ほどに増えます。
都会の大きい火葬式では、何十人も坊さんを招待することもあるそうです。
タンブン

「火葬式」の始まりです。
司会は、いつもの、教頭先生です。お祈りの先導は、「アチャン」です。
「棺」から、坊さんたちの手まで「聖糸」が引かれ、「お経」の功徳が、死者に伝わります。

お経が終わると、やがて、「タンブン」が始まります。数十人が、入れ替わり立ち代り、「僧衣」を献上します。
 坊さんが身につける「僧衣」は、もともと、人が捨てたものなど、不浄のものでないといけないことになっています。棺を覆った「僧衣」を手に入れて、坊さんたちは、これを機会に僧衣を新調できることになります。
経木の焼香
  記念写真が終わると、住職の「引導を渡すお経」のあと、棺はいよいよ、火葬場の釜に入れられますが、釜のまえで、参列者全員の「焼香」を受けます。焼香といっても、このときは、線香が使われるわけではなく、ごくうすい経木で出来た花飾りがつかわれます。婦人会の皆さんが、火葬場の、階段の前で、これをひとつづつ参列者にわたし、棺の上におかれます。これも合理化のひとつかもしれません。

  棺の蓋があけられ、遺族は、「ミー爺」と最後のお別れをします。 どういうわけか、愁嘆場は見られませんでした。4日間、じっくりとお別れをしたせいでしょうか。もし、そうだとすれば、葬式というのは、時間を掛けてやるほうが、残された人たちには、ショックや未練の情も軽減されて、いいことのように思われました。この瞬間は、何回経験していても、 気の弱い人にとっては、心臓にとても悪いと思います。
最後のお別れ

韓国や中国では、こんなとき泣く専門の人が呼ばれるそうですが、 それも、遺族の悲嘆を軽減する方策なのかもしれません。

  最後のお別れも済んで、棺は、近所の人たちの手で、釜に入れられ、いよいよ点火です。いまは、電気仕掛けの点火装置が使われ、坊さんのお経をBGMに、小学校の校長先生が、スウィッチを入れます。
  つい、2,3年前までは、棺まで張り渡された鉄線に吊り下げられた、 「流星花火」が、点火に使われていました。花火に点火して、 火が棺まで到達すると、爆竹が炸裂して、その後、ウォーっと「象」の泣き声のする仕掛けが使われたのですが、今ではなくなりました。残念です。とても情緒のあるものでした。この音はかなり大きくて、近隣の村々まで、聞こえ、「ああ、誰かまた、煙になってしまうんだ」と。



  「鳥辺山、谷にけむりのもえたたば、
           はかなく消えし、われとしらなむ」



  こうして、一連の葬式は終わりますが、翌日、内輪の親族だけで、「骨拾い」の儀式が行われ、遺骨は骨壷に収められますが、墓がないので、火葬場の隅に埋められ、記念樹などが、植えられることもあります。

  墓参りの習慣はありませんが、100日の供養(タンブン)、新年ごとのお寺での「施餓鬼供養」は、当分続けられます。




謹んで「ミー爺」のご冥福をお祈り申し上げます。

「合掌」