「チエンライの日本軍」


 第二次世界大戦中、旧日本軍がタイ国内に進駐してきたことを知らない人はいないと思う。目的は中国だった。
 当時の中国は「蒋介石」総統のもと、「国民党」が支配していた。その政府は、今の四川省重慶にあった。米英など、連合国は、「国民党」を南方方面、主としてビルマから支援していた。この支援ルートを「援蒋ルート」といい、日本軍は、このルートを断つために、タイを経由して、ビルマへの進軍を企てた。タイ西部のカンチャナブリから山越しにビルマへ通じる「泰緬鉄道」を建設した。この話は、主題歌「クワイ川マーチ」で有名な映画(「Bridge on the River Kuwai」)にもなった。戦後、戦争捕虜の強制労働や現地人などの半強制徴用などが、問題になり、戦争犯罪に問われ、処刑された軍人もあった。
 以上のようなことは、チェンライにやってくる前から、知っていた。

 ずっと以前のことだが、亡くなった義母の長兄(ランプーン県在住)から、日本軍といっしょに「戦った」話を聞き、旧日本軍は、チェンマイ方面の北タイ・ルートからもビルマに侵入していったことをはじめて知った。北タイは、のちに日本軍の敗走の道にもなった。退却時の「パイ街道(別名白骨街道)」の悲惨な話は、ランプーン在住の残留元日本兵、藤田さんから詳しく聞いたことがある。
 ところがところが、旧日本軍はチェンライにもやって来ていたのだ。ここからは義父が、たまに問わず語りに話してくれたものである。 義父「サオ」は、1933年生まれ。(生れた月日は不明、生れ年についても、不確かかもしれないが)

 12歳のときだったというから、1944年か45年頃のことだろうと思われる。ポー・ルォン(村長)の指示で、日本軍の徴用に参加することに。成人に達したものもいくらかいたが、大半は10代半ばの子供たちが、メカムの通りに出かけ、指示に従って、弾薬らしきものや食料などを、担いでメサイ方面の次の村まで運んだ。日本軍は、徴用されてきた彼らに「報酬」として、コインを1枚づつくれた。当時の貨幣価値で、1サタン(100分の1バーツ)の日本軍が発行したらしい軍用貨幣だったようだ。当時の貨幣価値からしても、「はした金」で、誰も喜ばなかったらしい。現在の貨幣価値に換算しても3バーツ、5バーツといったものだったようだ。
 この話から想像するに、日本軍は、タキレクからもビルマに侵入していったことになる。どの程度の規模の部隊だったのかは、定かではないが、かなりの編成であったらしいことは、超低空で飛んできた爆撃機が、街道の両側の部落を、援護爆撃しながら進軍したということからも想像できる。村々の、大木や、めだって大きい家屋などが、破壊されたらしい。住民は皆、山中などに避難していて、人的にはたいした被害はなかったらしい。
 「太平洋戦争」の旧日本軍に関する資料を調べれば、もっと詳しいことがわかるのかもしれない。「国立国会図書館」などには、資料が保管されているかもしれない。どなたか、奇特な方がいて、調べた結果を知らせてくれないかなあ、などと、虫のいいことを考えたりした。
 半世紀以上も昔のこととはいえ、旧日本軍の兵隊の子孫である一日本人に、かつての戦争のことを話題にして話しかけてくるものは、義父以外にはいない。このことは、何らかのかたちでチェンライにかかわりを持っている日本人でも、知らない人が多いのではないかと思って書いてみた。
古老たちばかりか、親たちから旧日本兵の話を聞いている人は、おおぜいいることと思うが、誰ひとり、このことに触れるものはいない。彼らの「思いやり」に、心から感謝しなければいけないと思った。  (ワイ)