「慢性硬膜下血腫」の手術体験
 − 交通事故の後遺症 −


 平成9年、もう、10年も昔のことです。再度にわたって、長野市の日赤病院で、「慢性硬膜下血腫」のドレナージ手術を受けました。
 そのときの体験など、ご紹介いたしたいと思います。

 最初は3月でした。
 2月に、娘の入学準備のため妻子をタイに帰して間なしのことでした。
 前年の、暮れもおしせまった、12月28日に、交通事故に遭い会社をクビになり、新しい会社に勤め初めて1ヶ月もしないうちの、ある日のことでした。いつものように出社して、これから仕事というとき、なんとなく「めまい」がして、障害物もないのに、けつまずくようになり、右足を少しあげて、足元を見ると、くるぶしから下が、だらりと垂れ下がり、思うように歩けませんでした。やがて、目の前がぐらぐらとゆれ始め、言葉も思うように話せなくなり、これで自分も一巻の終わりかと情けなくなりました。
 とはいうものの、タイに帰した妻子もおり、このままくたばるわけには行かないと、必死の、それこそ、必死の覚悟で、車を運転して、かかりつけの病院、日赤に向かいました。

 そんな状態ですから、まともに運転などできるはずはありません。わずか5,6kmの距離ですが、1時間近くはかかったのではないかと、思っております。どこをどう走ったのかはまったく記憶になく、途中何カ所かで、車の左側面をブロック塀などでこすり、また、行き止まりのような路地に迷い込んでしまって、「脱出」することができなくなってしまい、どなたかご親切な方に運転してもらって、やっと、やや広い道に出たことなどは、わずかに記憶に残っております。
 自分の体調が尋常な状態でないことを自覚していたのでしょう。途中、交通量の多い幹線道路を迂回し裏道を通ったことで、他の車との衝突や人身事故などを起こさなかったのは、神さまのお加護としか思えません。
 車は、かなり破損していたものの、何とか目的の病院にたどり着きました。担当の医師からは、自分で車を運転してきたことを、手厳しく叱られました。こんなときのために「救急車」というものがあるのだと。

 すでに意識はかなり朦朧としてはいたものの、医師の問診などには適当に答えられたもののようです。CT検査の結果、すぐに手術ということになり、「誓約書」などにサインさせられたのも覚えております。
 余談ですが、CT検査にあたって、「お守り」のついた金製の「ネックレス」をはずすようにいわれ、「病院服」のポケットに入れたのを、のちに、忘れたまま着替えをして紛失してしまい、たいそう悔やまれました。「迷信」とはいえ、病院まで、何とかたどりつけたのも、この「お守り」のおかげではないかと思えたりして、あちこち探してもらいましたが、見つかりませんでした。

 CTの写真を見せてもらい、頭蓋骨の内側で出血した血液のために「脳」がかなり圧迫され変形し縮小しているように見えました。このため、脳は正常に機能しなくなり、言語障害、運動障害などをおこしていたらしいです。
 頭蓋穿孔(ドレナージ)手術というのは、耳の上10cmほどのところに、1円玉くらいの孔を開け、そこからたまった血の塊を取り除くのです。普通は、局部麻酔で手術をするらしいのですが、ガリガリとドリルの歯が食い込んでいくに従い、痛さも耐えられないほどになり、お願いして、全身麻酔に変えてもらいました。
 麻酔が覚めて、気がついた時には、病室のベッドの上でした。頭からの細いパイプの先に、ガラスコップのようなものが取り付けられていて、出血箇所を洗浄した液体(?)混じりの血液が半分ほどたまっていました。
 傷口あたりは痛みがあるものの、手足は、すっきりと軽くなり、自由に動かせるようになり、朦朧としていた意識も普段どおりに戻り、この手術の速効性に変に関心したりしました。
 その後、病室に様子を見に来た医師の話では、右側にも「血腫」ができているが、まだ小さく後日、症状が出てから再手術しましょう、ということになりました。「血腫」は、自然に吸収されて消えることもあるらしいのです。

 外科部長の回診のおり、小生の「慢性硬膜下血腫」が、多分、暮れの交通事故の後遺症であること、そのとき頭に受けた衝撃が、強すぎもせず、弱いということもない、慢性化するのにちょうどよい衝撃だったことを、教えてくれました。外科部長は、万一、もう少し強い衝撃を受けていたら、「急性硬膜下血腫」か「脳内出血」を起こし、重篤なことになっていたにちがいない、「あなたはラッキーだったよ」と、冗談交じりに話してくれました。「慢性」という言葉からは、ずっと以前からという印象を受けるのですが、中程度の衝撃のため「硬膜」の下の「細い」静脈が傷ついて、じわじわと出血したという意味なのだそうです。「慢性硬膜下血腫」の発症にも、原因があってから、1ヶ月後くらいから半年後くらいまで、さまざまだそうです。交通事故に限らず、転んで頭を打つなど本人が忘れてしまった頃になって、発症することがあるので、それなりに怖い病気だとは思います。

 1回目の手術のカルテの一部


 1回目の手術の後、別段異常もなく毎日を過ごしていたのですが、カルテ記載のとおり、3ヶ月が過ぎた6月のはじめ、前回同様の症状があらわれ、2回目の手術を受けました。
 2回目のときは、前回よりは症状は重かったかもしれませんが、覚悟はできており、不安はありませんでした。1回目も2回目も、ともに半月ほどの入院でしたが、病院生活が続いて退屈してしまい、途中でこっそり抜け出したり、あまりいい患者ではなかったかもしれません。

 頭蓋骨に左右孔を開けられ、大変な思いはいたしましたが、その後現在まで、後遺症もなく、ずっと元気で暮らしております。
 命の「恩人」、長野日赤の土屋先生はじめ、看護婦の皆様方には、心から感謝いたしております。土屋先生は、小生の2回目の手術後、程なくして、北関東の病院に移られたそうですが、お元気でご活躍されていることとご推察申し上げます。

(追記)2011/01/26
 1月14日の日経のWEBなどに、俳優の細川俊之さんが、「急性硬膜下血腫」で亡くなったという記事が出ていた。
 侮れない「怪我」だが、自分のことを振り返ってみると、不幸中の幸いだったと神様に感謝しなければならないと思われる。

 以下に、日経の記事の冒頭だけ抜粋して掲載しておく。


俳優の細川俊之さんが死去 (2011/1/14 20:46)
 二枚目俳優として活躍した細川俊之(ほそかわ・としゆき)氏が14日午前5時24分、「急性硬膜下血腫」のため東京都内の病院で死去した。70歳だった。告別式の日取りなどは未定。12日に自宅で転倒して頭を打ち、病院に搬送されたという。
                       (掲載記事以下略)