ココナッツ  (マプラオ)



わが家の椰子の木 ( 樹齢 50年〜 )
ココナッツ (ヤシ科)
Cocos nucifera LINN.  

(タイ)  マプラオ  (北タイ) マパーオ
(中国) 椰子
(英)  Coconut palm


 南太平洋の熱帯諸島 の原産。現在では、熱帯亜熱帯地方の海岸・河口地帯 ばかりか、内陸地方のどこにでも見られる。

 栽培の歴史は古く、4世紀初頭の中国の 南方植物誌 『南方草木状』 には中国南部、交趾安南地方 での栽培が記載されている。

 樹高 30mに達する直立単幹の高木で、羽状葉 は5mあまりにもなる。樹齢 は100年以上と思われるが、樹高が高くなりすぎると強風に遭ったときに上部が折れて枯れることが多い。
 また人家の庭などに植えられている椰子の木の場合、収穫が困難なことと、椰子の実が落下して危険なため、伐採されることが多い。

 果実の外見は、角ばったラグビーボール状で、滑らかな革質。成熟するにつれ 黄緑色 から 橙黄色 に変わり、完熟後は 灰褐色 になる。
 黒褐色 をしたソフトボール大の硬質の殻(椰子殻)の中に、「ココナッツ・ジュース」とともに、厚さ1cm前後の、いわゆる「ココナッツ」がへばりついている。これを乾燥したものが「コプラ」である。
 完熟前の「椰子の実」の「ココナッツ」は、「ナタデココ」に似たゼリー状をしていて、「ココナッツ・ジュース」とともに生食される。
   参考「東南アジアの果樹」(農林統計協会刊)

 わが家を新築したときには、現在の屋敷に、上の写真の兄弟分が数本ありましたが、1本だけ残して切り倒してしまいました。
 そのころすでにかなりの高さの木になっており、屈強な若者か、プロの「椰子の実採り」しか登ることは出来ませんでした。
 切った「椰子の木」は、製材して、納屋や鶏小屋の建築材料として使用しました。

 あまりものの「椰子の実」を、庭の隅などに放置してあったものが芽を出し、2代目もふえました。

 大木を切り倒したあと、女子供でも実をとれるようにと、「矮性」の「椰子」を10本ほど植え、最近になってやっと実をつけるようになりました。

 バンコクからの帰り道、中部タイで苗木を購入したものです。 道路わきには、焼いた「椰子の実」を売る屋台店が並んでいました。
 わが家では、焼くのが面倒で、そのまま生食しておりますが、生ココナッツ特有の臭いも少なく淡白で美味なものです。



生食用の矮性種 ( 樹齢 15年〜 )



生食用に売られている普通の「椰子の実」


生食用に売られている矮性種 
香りを良くし、甘味を増すために焼かれている
薬剤処理して漂白してあるために白色である




「 椰子 」の利用

 世界中では、椰子の仲間は数千種類あるといわれています。用途もさまざまで、大昔から、熱帯・亜熱帯地方の重要な有用植物として栽培されてきたようです。
 日本では、食用油や化粧品などの原料になっている「パーム・オイル」として、あるいは、浄水器などに使われている「椰子殻活性炭」が知られていると思います。
 北タイでは、昔から栽植されていただけあって、さまざまな利用方があります。実ばかりではなく、葉、幹など利用されていない部位はないくらいで、利用されないのは根くらいのものです。

 ・ ココナッツは、料理菓子に。

日常の家庭料理に使われるココナッツは、中部タイほど多くはありませんが、「ケン・キオー・ワーン」などには欠かせない材料です。
祭事にお寺へ持っていく「粽(ちまき)」の餡は、ココナッツで作るのが普通です。
 「ココナッツ」を粉砕しながら、殻からはがす「兎(カタイ)」と呼ばれる道具がありますが、消費量が減ったためか、市場で粉砕したものを購入するようになったからか、最近では、あまり見かけなくなりました。

 ・ 椰子の若芽は、食材に。

椰子の木の先端を「ヨート・マプラオ」といいます。
若い蕊(ずい)の部分は、「たけのこ」のような食材になります。「たけのこ」よりは、柔らかく、灰汁(あく)もない、甘みのあるものです。
 先端部を切り取られた椰子の木は枯れてしまいますので、珍味の部類に入るのかもしれません。
 「ヨート・マプラオ」の料理をいただいていると、何とはなしに「命をいただいている」という、感傷的な気分にさせられます。

 ・ 「コプラ」と「パーム・オイル

中身(胚乳)を乾燥した「コプラ」は、フィリピンやインドネシアで、それぞれ年間100万トン以上生産されていて、その大半が輸出されているそうです。この「コプラ」からは、油脂が抽出され化粧品や食用油として使われているそうです。
 タイでの「コプラ」の生産は、あまり多くはないようですが、生の椰子の実から食用油が生産されています。タイの食用油のほとんどが、「椰子油(パーム・オイル)」を主成分にしたものです。
 「パーム・オイル」には「コレステロール分」が多くふくまれているため、あまり取り過ぎると、身体に良くないそうです。

 ・ 「砂糖

「砂糖」をタイ語では、「ナーム・ターン」といいます。もともとは、「ターンの汁」からきています。「ターン」というのは、インド由来のことば(Tala)だそうです。その「ターン(多羅葉)」の木、「トン・ターン」から砂糖は作られ、「ナーム(水または汁)」というくらいですから、液状または半固形のものだったようです。
 現在では、「砂糖」の主原料は「さとうきび」ですが、「さとうきび」がタイに普及するのは、アユタヤ朝も末期になってからのことのようです。
今でも、「さとうきび」からとった砂糖を「ナーム・ターン・オーイ」ということもあり、精製した「グラニュー糖」や「ザラメ」などが主流になってしまいました。
 市場などでは、未精製のドロっとしたものや固形の砂糖が売られていて、中には、「カルメ焼き」のような形をした「トン・ターン」からとった砂糖なども目にすることがあります。

 ・ 椰子の実のは、「ラン」などの園芸植物の栽培用に。

椰子の皮を「プオック・マプラオ」といいます。適当に水持ち、水はけがよく腐敗しにくいため、「ラン」の吊り鉢や根腐れしやすい園芸植物の植木鉢に、「水苔」などと同じように使われます。「ラン」栽培にはなくてはならないものです。

 ・ 椰子の実のは、民具やアクセサリーなどに。

サルの顔「ココナッツ」の「ココ」というのは、ポルトガル語の「猿(ココ)」から来ているそうです。この「サル」の頭のような形をした、椰子の実の殻は、硬質で割れにくく、「食器」、「杓子」、「スプーン」などとして、昔から利用されてきました。 最近では、彫刻をほどこした洒落た小皿やボタン、ブローチ、ペンダント、バックルなど、さまざまなアクセサリーにも加工されているようです。象牙細工のような精巧な彫刻の置物なども見かけることがあります。


 ・ は、かつては「紙」として筆記用紙に。

「トン・ターン」と呼ばれている種類の椰子の葉は、筆記用紙として利用され、古い寺の境内などには、今でも、この木が見られます。
 詳しくは、
     『バイラーン (紙以前の筆記用具)』をご覧ください。

 ・ 「庭箒

椰子の葉の葉柄を使って、庭箒を作ります。日本の「竹ほうき(我が故郷、遠州では、”よどろぼうき”といいます。)」と同じようなものですが、タイの庭箒のほとんど全てが、椰子の葉製です。

 ・ 「建築資材

椰子の木は、建築資材として家屋の構造材としても使われます。
風雨には、あまり強くないので、雨の当たらない部材として利用されます。
 かつて、「葉」は屋根葺き材としても使われていたようで、「ニッパヤシ」などと呼ばれている種類の椰子もあります。




「 椰子の木 」に想う

 「椰子の木」 というのは、ほかの広葉樹の木々とちがって、青空高く、1本の幹ですっと立ち上がり、葉も、その上のほうにだけしかなく、すがすがしさを感じる、好みの木です。さわやかな青空や夕焼け空などをバックにした、その光景は、一幅の絵といった感じで見とれてしまうこともたびたびです。

 ですがまた、「椰子の木」 というのは、「熱帯」を象徴する木であり、まだ幼いころ 『冒険ダン吉』 などで培われた 「野蛮人の住む国」 の象徴でもあるのです。
「腰蓑」 ひとつで、長い槍を手にし、鼻に獣の骨をつけた 『黒ん坊』 あるいは 『人喰い人種』 の世界なのです。
 現在では、『のらくろ』 などとともに、発禁処分や放送禁止に処せられるような「アナクロニズム」なのかもしれませんが、そういう時代に幼年期を送ってきたのです。
 タイに一歩足を踏み入れたとたん、今でも、同じような 「警戒心」 を拭い去ることは出来ません。
とって喰われるなどとは思いませんが、それでも、油断のならない土地であることには変わりありません。
 小心者である自分は、誰にでも 「微笑み」 かけ、恨みを買ったり、敵愾心をもたれることがないように、常に心がけております。自らや家族を守るためには、「敵」 を作るわけにはいかないのです。

 成田をたった飛行機が、バンコク空港への着陸体勢入ったころから、窓の外を眺めると、地上の光景が眼下に迫ってきて、真っ赤なラテライトの空き地や赤い屋根の住宅などとともに、「椰子の木」 が目に入ってきます。
 異国への到着を痛感するとともに、故郷日本から「後ろ髪を引く」もののあるのを感じる瞬間です。
 昔の人たちとは違い、その気になれば、帰ることなどは、さほど難しいことではないのですが、自ら選んで、「夷狄」 の棲む土地へ、これから入っていくのかと思い、「武者震い」 することすらありました。

 「椰子の木」 は、やはり、「熱帯」 の植物なのでしょう、北タイに入って、「ウタラディット」の坂道を登りきったあたりから、目に見えて少なくなり、かわって「チーク林」 と 「竹林」 が目につくようになります。故郷に帰ったとまではいきませんが、いくらかは気が休まるようです。

 「熱帯」 と 「亜熱帯」 の境目など、その年の気候によっても変わり、あいまいなものですが、「プレー」、「パヤオ」あたりが、その境界のような気がします。
 わが家のあたりでも、「椰子の木」 はあちこちに見られますが、中部タイのように鬱陶しいほどの 「椰子の木」 はありません。食糧事情の良くなった昨今、「椰子の木」 は切られることが多くなり、山沿いの村などでは、視界の中に「椰子の木」 が1本もないなどということも良くあることです。



椰子の実

島崎藤村 作詩  大中寅二 作曲


名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん


     

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椰子の実」 は、明治33年(1900)に 『海草』 という総題のもとに 「新小説」 に発表された詩五編のうちの一編だそうで、翌年発行の最後の詩集『落梅集』に、「小諸なる古城のほとり」 などとともに収められています。

 民俗学者・柳田国男の渥美半島・伊良子岬 あたりでの体験談 をヒントにし、
逃避行の淋しさ から生まれた詩だそうです。
 現在でも、渥美半島 あたりから 遠州灘海岸 にかけて、台風のあとなどには、「椰子の実」 が流れつくことがあるようです。

 この歌が広く愛唱されるようになったのは、昭和11年(1936)に、山田耕筰門下の大中寅二が作曲して以来だそうで、文部省唱歌などにも指定され、小学校時代に音楽の授業でも歌いました。

 タイへの永久移住を決意して以来、「椰子の木」 を見ると、この歌が脳裏をかすめ、望郷の念にかられ、心寂しく思うことがあります。