ココナッツ (マプラオ)
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ココナッツ (ヤシ科) Cocos nucifera LINN. (タイ) マプラオ (北タイ) マパーオ |
わが家を新築したときには、現在の屋敷に、上の写真の兄弟分が数本ありましたが、1本だけ残して切り倒してしまいました。 そのころすでにかなりの高さの木になっており、屈強な若者か、プロの「椰子の実採り」しか登ることは出来ませんでした。 切った「椰子の木」は、製材して、納屋や鶏小屋の建築材料として使用しました。 あまりものの「椰子の実」を、庭の隅などに放置してあったものが芽を出し、2代目もふえました。 大木を切り倒したあと、女子供でも実をとれるようにと、「矮性」の「椰子」を10本ほど植え、最近になってやっと実をつけるようになりました。 バンコクからの帰り道、中部タイで苗木を購入したものです。 道路わきには、焼いた「椰子の実」を売る屋台店が並んでいました。 わが家では、焼くのが面倒で、そのまま生食しておりますが、生ココナッツ特有の臭いも少なく淡白で美味なものです。 |
![]() 生食用の矮性種 ( 樹齢 15年〜 ) |
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生食用に売られている普通の「椰子の実」 |
生食用に売られている矮性種 香りを良くし、甘味を増すために焼かれている 薬剤処理して漂白してあるために白色である |
「 椰子 」の利用 世界中では、椰子の仲間は数千種類あるといわれています。用途もさまざまで、大昔から、熱帯・亜熱帯地方の重要な有用植物として栽培されてきたようです。 日本では、食用油や化粧品などの原料になっている「パーム・オイル」として、あるいは、浄水器などに使われている「椰子殻活性炭」が知られていると思います。 北タイでは、昔から栽植されていただけあって、さまざまな利用方があります。実ばかりではなく、葉、幹など利用されていない部位はないくらいで、利用されないのは根くらいのものです。 ・ ココナッツは、料理や菓子に。
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・ 椰子の若芽は、食材に。
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・ 「コプラ」と「パーム・オイル」
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・ 「砂糖」
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・ 椰子の実の皮は、「ラン」などの園芸植物の栽培用に。
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・ 椰子の実の殻は、民具やアクセサリーなどに。
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・ 葉は、かつては「紙」として筆記用紙に。
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・ 「庭箒」
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・ 「建築資材」
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「 椰子の木 」に想う 「椰子の木」 というのは、ほかの広葉樹の木々とちがって、青空高く、1本の幹ですっと立ち上がり、葉も、その上のほうにだけしかなく、すがすがしさを感じる、好みの木です。さわやかな青空や夕焼け空などをバックにした、その光景は、一幅の絵といった感じで見とれてしまうこともたびたびです。 ですがまた、「椰子の木」 というのは、「熱帯」を象徴する木であり、まだ幼いころ 『冒険ダン吉』 などで培われた 「野蛮人の住む国」 の象徴でもあるのです。 「腰蓑」 ひとつで、長い槍を手にし、鼻に獣の骨をつけた 『黒ん坊』 あるいは 『人喰い人種』 の世界なのです。 現在では、『のらくろ』 などとともに、発禁処分や放送禁止に処せられるような「アナクロニズム」なのかもしれませんが、そういう時代に幼年期を送ってきたのです。 タイに一歩足を踏み入れたとたん、今でも、同じような 「警戒心」 を拭い去ることは出来ません。 とって喰われるなどとは思いませんが、それでも、油断のならない土地であることには変わりありません。 小心者である自分は、誰にでも 「微笑み」 かけ、恨みを買ったり、敵愾心をもたれることがないように、常に心がけております。自らや家族を守るためには、「敵」 を作るわけにはいかないのです。 成田をたった飛行機が、バンコク空港への着陸体勢入ったころから、窓の外を眺めると、地上の光景が眼下に迫ってきて、真っ赤なラテライトの空き地や赤い屋根の住宅などとともに、「椰子の木」 が目に入ってきます。 異国への到着を痛感するとともに、故郷日本から「後ろ髪を引く」もののあるのを感じる瞬間です。 昔の人たちとは違い、その気になれば、帰ることなどは、さほど難しいことではないのですが、自ら選んで、「夷狄」 の棲む土地へ、これから入っていくのかと思い、「武者震い」 することすらありました。 「椰子の木」 は、やはり、「熱帯」 の植物なのでしょう、北タイに入って、「ウタラディット」の坂道を登りきったあたりから、目に見えて少なくなり、かわって「チーク林」 と 「竹林」 が目につくようになります。故郷に帰ったとまではいきませんが、いくらかは気が休まるようです。 「熱帯」 と 「亜熱帯」 の境目など、その年の気候によっても変わり、あいまいなものですが、「プレー」、「パヤオ」あたりが、その境界のような気がします。 わが家のあたりでも、「椰子の木」 はあちこちに見られますが、中部タイのように鬱陶しいほどの 「椰子の木」 はありません。食糧事情の良くなった昨今、「椰子の木」 は切られることが多くなり、山沿いの村などでは、視界の中に「椰子の木」 が1本もないなどということも良くあることです。
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「椰子の実」 は、明治33年(1900)に 『海草』
という総題のもとに 「新小説」 に発表された詩五編のうちの一編だそうで、翌年発行の最後の詩集『落梅集』に、「小諸なる古城のほとり」
などとともに収められています。 民俗学者・柳田国男の渥美半島・伊良子岬 あたりでの体験談 をヒントにし、 逃避行の淋しさ から生まれた詩だそうです。 現在でも、渥美半島 あたりから 遠州灘海岸 にかけて、台風のあとなどには、「椰子の実」 が流れつくことがあるようです。 この歌が広く愛唱されるようになったのは、昭和11年(1936)に、山田耕筰門下の大中寅二が作曲して以来だそうで、文部省唱歌などにも指定され、小学校時代に音楽の授業でも歌いました。 タイへの永久移住を決意して以来、「椰子の木」 を見ると、この歌が脳裏をかすめ、望郷の念にかられ、心寂しく思うことがあります。 |