「雨ニモマケズ」 − 北タイ人気質 −

雨ニモマケズ


 宮沢賢治(1896-1933)
 岩手県出身の詩人、童話作家。作詞、作曲、劇作なども多い。
 盛岡高等農林(岩手大学農学部の前身)を卒業後、1921年(大正10)に上京。日蓮宗の宗教活動に入ろうとしていた矢先、妹が発病したため帰郷し、地元で教職についたが、辞してのちも宗教と自然と科学の融合した世界を理想として啓蒙活動につとめた。
 詩集 「春と修羅」、童話集 「注文の多い料理店」、童話 「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」 など、多くの人に親しまれ、国語教科書にとり上げられたものも多い。

 冒頭の 『雨ニモマケズ』 の詩は、いつも持ち歩いていた、手帳に書き込まれていたもので、その死後に公表されたもの。
 昭和6年(1931)11月3日の日付とともに書き残されていたもので、 短かかった一生の晩年に近い時代に書き残したもののようである。
 彼の理想としていた生き方が凝縮されていて多くの人々に共感を与え、親しまれてきたものである。

 北タイ人との長いお付き合いの間に、この詩のことが気になって仕方がないことがたびたびあった。
 タイ人気質については、とかくに否定的な見解が多いし、そのほとんどが当を得た評価であるといえないこともない。
 だが、見方を変えてみると、彼らの生き方というのは、かつて、日本の片田舎に住んでいた知的な若者が、理想としていた生き方そのものと言えないこともない。
 100年近くも昔に、宮沢賢治が 『サウイウモノニ、ワタシハナリタイ』 と考えていた生き方そのままなのである。

 「味噌」 を、「ナム・プリック」 に、「玄米」 を、「カオ・ニオウ」 に置き換えれば、
ほとんどそのまま、彼らの生き様そのものである。
 北タイの男のひとりひとりに、宮沢賢治が乗り移ったようにさえ思われる。
 北タイ人の気質の根底には、賢治と同じように、農業があり、仏教があることによるものかもしれないが、人間とは、もともとは、このような生き方をしてきたものなのだろうなと思われる。

 だが、時代の流れに逆らって生きるのは難しい。
 残念なことに、このような生き方は、現代の若者たちには受け入れられそうもない。北タイの若者たちの視座も、すでに、日本人的に変化してきている。せちがらい現代を生き抜いていくためには、そぐわない生き方だし、「時代遅れ」ということなのであろう。
 タイも、いまや経済がなにより優先される社会に入りつつあり、手段を選ばず成功を目指すものが目につくようになってきた。国王の「知足」を諭とす「お言葉」すら、むなしく聞こえる時代に入ってきたのである。
 まさに、賢治が、「雨ニモマケズ」をノートに書き込んだ時代が、タイの田舎にもやってきたのである。
 文化や文明が発達してくると、人間は不幸せにならざるを得ないのかもしれないと思うと、切ない思いにかられるが、それも時代なのかもしれない。
 『雨ニモマケズ』 は、現代人の「墓標」 かもしれないが、現役の「企業戦士」 にあえて言いたい、『雨ニモマケズ』 を読み返して、今の生活を振り返ってほしいと。

(蛇足)
 タイの田舎に知人や友人を持っていおられる方は、まわりを見回していただきたい。まだまだ、賢治が理想としていた生き方をしているタイ人が多数いるはずである。
 また、自分の経験から得た教訓ではあるが、人の一生、「家族」 ほど大事にしなければならないものはないし、人生に意味や目的があるとすれば、その最大かつ最重要なものが「家族」 だと思う。家族を犠牲にしてのいかなる成功もむなしいものにちがいないことに、いつかは気づくはずである。
 賢治も、妹の病を契機に、都会での生活を諦め、ふるさとに戻っている。
                                     (2007/05/18)